考察厨側からの考察厨の姿。考察厨側から見たアンチ考察厨の姿。その3
前回の続きでアンチ考察厨による何故考察厨はキモいのか、と言う事で
「目に見える所にあるのがキモい」
という意見のためにかつては同好の人間たちで、そしてネットの掲示板や個人サイト、今は自分のようにテキストなどを投稿するサイトを使う。
あるいはSNSなども使っていた事もあったがSNSなどは短い文章しか出力できない。
その「短い文章」が売りなのだから長文を書いたとしても「見ようとしなければ見ない」のは簡単である。
自分のタイムラインに流れてくるならフォローを切るなりミュートにするなりすれば良い。
「自分の目につく所にあるのがキモい」というのは現実の世界では確かにその理屈は通じるが日本はほぼそうした物は目につかない。
個人の好き嫌いはあるがおおよその「多数派」が肯定しているもので現実世界は彩られている。
逆に多数派が見たくないもの、「汚物」「動物の死骸」「猥褻物」はほぼ見ることはない。
そうした物を公共の場に放置、投棄したりするのはルールとしてアウトであり、日本にいる以上はそのルールを守らなければならないし、それを確認したら役所などに連絡するなりして対処してもらえる。
だから基本的にそれらを見る機会があるのは壁、あるいはドアを一つ跨いだ世界に向かう必要があり、それを見るのは「自分の選択」だ。
ネットの世界では基本的に全て「ドア」があり全て「自分の選択」になっている。
その自己責任を悪用した「ワンクリック詐欺」なども流行ったがそれは犯罪として「多数派」がそれを良しとせず対処法などがちゃんとある。
だがアンチ考察厨の言う考察厨に対するソレはあくまで「個人」の好き嫌いで見ようとしなければ見なくてすむ。
ブラウザやアプリを開いてホーム画面に「おすすめ」される動画だとかニュースだとかがあるが結局はそれを見るかどうかは「自己責任」で見出しなどで見たくなければ見なければ良い。
「無理矢理見せつけられました」と言うのであればそれは考察厨などとはまた違った問題であり、しかるべき所に相談する必要はあるが。
公共の場で「不快な物」があれば「役所」などのしかるべきところに「 処理」を求める「連絡」をする。
ネットでワンクリック詐欺のような「トラブル」があれば「消費者センター」などに「助け」を求める必要がある。
これらから考察していくとアンチ考察厨の「自分の視界に存在するのがキモい」という事は「不愉快になった気持ちへの対処」を面倒臭く感じているだけである。
「嫌なら見なきゃ良い」というのが大前提であるが人間誰しもが刺激を求めて「 怖いもの見たさ」からついついそうした「自分の知らない物」に手を伸ばす。
しかしそれが必ずしも「安全」とは限らないし自分にとって「面白い」とも限らない。
逆に「トラウマ」を覚える事もある。
その後に起こる事はツイフェミの行動を見ればよく分かる。
数の力、「多数派」を盾にして自分の気に入らない物を孤立化させて締め出す。
勿論それが本当の意味で皆が利用する「公共」の空間なら口実にはなる。
しかし現実世界においても、ネットの世界においても大抵の場合、ケチをつけようとしているのは「壁」の向こう側である。
学校、会社、そうした一つの「壁の中」では数の力で気に入らない物を消す事は出来た。
しかしそうした壁を取っ払えば自分達に正義がある振りかざしていた「多数派」の力は「まやかし」である。
アンチ考察厨が気持ち悪い、悪の存在とレッテルを貼ってきた考察厨は悪人でもなんでもなく、ただの少数派。
そしてアンチ考察厨自身も一つの少数派に過ぎない。
価値も正義も「公共」の空間においては「考察厨」にも「アンチ考察厨」にもない。
ただ「公共のルール」に価値と正義がある。
考察厨は自分達の出力しているものが自分達の世界「壁の中」でやっているのか、外に垂れ流していないかを常に考えて戒めをしなければならない。
同時にアンチ考察厨は「自分達」が「公共」であると勘違いして自分を拡大してはいないか。
考察厨にしてもアンチ考察厨にしても「自分達」は今どこに居るのか。
「自分の世界」なのか。
「公共の世界」なのか。
「他人の世界」なのか。
考察厨がアンチ考察厨の視界に入る事を気をつけなければいけないのだとしたら、アンチ考察厨は考察厨の領域にわざわざ足を踏み入れる事がないようにお互いに気をつけなければならないのである。