考察厨側からの考察厨の姿。考察厨側から見たアンチ考察厨の姿。その2
アンチ考察厨が「なぜ考察厨が不愉快なのか」という考察をしているのを自分で観測した物を前話で紹介したが改めて書き出すと
・作中で明言されていない描写を自分勝手な妄想でこじつけるのが気持ち悪い。
・ソレに共感して群れて力を持って正当化しようとするのもキモい。
・それが視界に入るのがそもそもキモい。
・仮にその考察が原作の中で明かされて正解だったとして、それはそれでイラつく。
コレは全部ブーメランになっている。
まず「作者が描いていない部分」について自分の知識や解釈で「仮定」するのは普通の事だ。
分かりやすいように噛み砕いたり自分の経験や立場に置き換える事で理解度が高まる。
これをまず認めないアンチ考察厨の者もいるがそれはつまり「相手の立場や相手の事を考えられない人の心がないケダモノだ!」
とこんな風に言ってしまえばアンチ考察厨を罵っているように思える。
だけどこうした例えから先が考察であると同時コレ自体は問題ないと思う。あくまで「仮定」であると同時に結論を出す為の「過程」でもある。
単に「◯◯だから△△に違いない」と仮定とすべき部分が結論になってしまうのはマズイ事になる。
ここについては自分を含めた考察厨は常に心の中に「仮定は過程である」と言い聞かせる必要はある。
そしてアンチ考察厨は考察厨に対して「自分が不愉快になっているのだから気持ち悪い存在である筈に違いない」と最初から決めつけている所からスタートする。
そして同時に結論でもある。
「仮定」ではなく「断定」した所から掘り下げている。
アンチ考察厨が嫌う考察厨と同じ行為であり、考察厨が漫画などな作品に対して行う「ソレ」の名前は知らないが人が他人の行動や所属している事について「ソレ」を行うのは「偏見」「レッテル張り」「差別」など言ってしまえば色々ある。
いまこんな風にアンチ考察厨について考察厨が考察するのもある種「レッテル貼り」だが自分としてはアンチ考察厨に対して理解するために解像度を上げようと「仮定」している。
アンチ考察厨のそれは「断定」から始まる「理解しないための正当化」でありアンチ考察厨にとって都合のいい考察である。
そしてそうしたアンチ考察厨が嫌いな考察厨の行動を上げ連ねて「だから考察厨は気持ち悪い、悪である」と断定した物をネットにエッセイやら記事やら、あるいはSNSで投稿する。
するとそれに共感した別のアンチ考察厨が反応し「私もそう思っていました」と繋がっていく。
そうして「自分の内側の言語化」が周りから肯定されたり共感される事でより強い「正当化」に繋がる。
ようは考察厨が漫画などの作品の鋭い考察に共感される事、それで支持される事と何ら変わらないのである。
またブツ切り。




