教訓無き勧誘について。
「男性に向けて言いたいことがある。タバコとか酒とか止めて運動習慣をつけて。(筋トレなどではなく格闘技などが良い)」
そして最後には「びっくりする事になるよ」という言葉。
果たしてこの言葉で何人が「びっくり」に期待して格闘技を始めようと思うのか。
個人的には筋トレしてる人間だから若干イラっとしたが、それ以上に思うところがあり、何も尋ねなかった。
しかし別の誰かがその結果、「びっくり」を尋ねたらしく、その答えは上記の提案をした人間にも曖昧で「言葉にできないけど確実に変化する」との事。
この手の発言はどんな事でも当てはまる。
もっとも原始的な男の趣味である「飲む打つ買う」にすらそれぞれ学びがあり、解決する課題がある。
他人から理解されないような事でも、むしろそういう事のほうが独創性がある場合もある。
格闘技を馬鹿にする、とかあるいはこの発言をした人を馬鹿にしたいわけではないがこうした文言は胡散臭い情報商材だとか、あるいは中身の見えないネットサロンの謳い文句にちかいものわ感じる。
この令和の時代においては仕事でも「とりあえず3年」というものも色々と賛否両論の時代だ。
本人の意思で選択したならともかく、他人に勧めたいのならもっと明確なメリット、デメリット、そして何より自分の経験から得た教訓を伝えるべきだと思う。
筋トレ界隈に触れていると自分のような趣味の人間やコンテストや競技として取り組む者、あるいは格闘技やスポーツの補助として取り入れる者。
一番多いのはダイエットや健康目的だろうか。
筋トレと言っても人によって目的は様々であり、同時にその目的の中を見ていっても優先させたい美的感覚自体も多岐にわたる。
それを踏まえた上で筋トレと比較して何故「格闘技」を勧めるのか。
色々考えると「陽キャラ」なのだ。
自分のような「陰キャラ」はいつも他人から理解されにくい。
今でこそ筋トレは比較的に一般的になったがそれでも未だに「何を目指しているの?」「何が面白くてそんな事してるの?」といった疑問は投げかけられる。
それに対していちいち説明をしていた時期もあったがようは「理解できないものは気持ち悪い、怖い」といった感情の一端なのである。
だからそれに対して言語化する事が日常茶飯事でそれは見方を変えれば「言い訳がましい」「正当化」とか言う者もいる。
「同じような価値観で同じような事を楽しみ、同じ喜びや悲しみ、怒りを感じてほしい」
共感して欲しい気持ちは分かるが残念ながら自分のような者から「共感してほしい」という事は無視させられて一方的に我慢させられてきた。
多数派の価値観のみを飲ませられ、自分の楽しみや悲しみ、怒りは自己責任。
だから自分のしたいことのために「理由」をつける事を続けてきた。
その結果が一つの表現としてエッセイなどを素人ながら書いていたりするわけだ。
恐らく、今まで「多数派」で言語化せずとも共感を得られていた「陽キャラ」が格闘技を始めた事で他人に喜びや悲しみといった感情を共有してもらうために言語化が必要になった。
「人と殴り合って何が楽しいの?」「痛い思いをして何になるの?」
自分は格闘技をやってはいないが筋トレをしてきたからそうしたネガティブな疑問への答えを自分なりに持っている。
相手に理解できるかどうかは自分の語彙力と相手の歩み寄りの度合いに寄る。
いくら丁寧に説明してもどこぞの女優、女タレントのように筋トレ全否定のように聞く耳持たずの人もいるし、ちゃんと耳を傾けてくれる人もいる。
運動神経もそれなり、勉強もそれなり、仕事も充実しているし、恋愛もそれなりにしてきてそれなりの挫折もしてきた。
そうした「普通」の人間、しかも自己肯定感の高さから考えると「平均以上」の優秀な人間からすれば少数派になった事自体の経験も少ないだろう。
刺激的で達成感があってそれを共有したい、と同じ「男性」に向けてのメッセージだったのかもしれないが現代の仕事における「とりあえず3年」に対して根拠が不明瞭で賛否両論な時代だ。
「びっくりする」という期待をもたせた言い方だけでは残念ながらやってみようと思うのは少ない。
同じような時間を持て余した「陽キャラ」ならともかく、本当に自分に不満やコンプレックスを持った人間こそ結果が曖昧な「教訓無き勧誘」ほど無責任なものは非常に警戒する。
提案したりするのは良い。だがそれで結果が得られず「びっくりする」という感覚に至れずに時間や体力、金といった物を無くす事になるリスクがある。
それを「普通の人間なら理解できる」と自己責任とされ、さらには「情けない」と見下されたりする事も経験してきた。
せめてもう少し「びっくり」以外、何か欲しかったな。
せめて結論は言語化できずとも格闘技の中でも立技系なのか組技なのか、総合なのか。
あるいは何のために格闘技を勧めるのか、あるいは自分の始めた理由とか。
そうした動機は裏返せば個人差があるとはいえどある種の「弱味」にもなる。
弱味も見せてくれないのは「うーん」と唸ってしまう。
というのが他人として眺めて見ていた自分の感想と少数派が警戒する「言い訳」である。
1000文字縛りは三日坊主で終わった。