多様性の在り方。
過去の話でも似たような事を書いてる可能性は高いがあえてもう一度。
すっかり聞き馴染みのあるワードとなってしまった多様性という言葉。
だが耳に馴染んだとはいえ果たして日本の社会にそれが浸透しているのか、といえばそれはそうとは言えない。
過去のエッセイで多様性を「道」と表した、と思っているがどうだったかな。
日本に昔からある多数派の整備された広くて綺麗な道。
一方で外国からの新しい文化だとか地方独自の少数派の整備が行き渡っていない道。
多数派の道は綺麗ではあるがそこばかり舗装し、その多数派の道路沿いばかり栄えたとしても日本の成長は限界が来る。
だからこそ、他の道にも「愛」を与え、共有する必要がある。
また「道」と表すのはゴールは「死」だからである。あくまで生きるのはゴールまでの道のりでそこには「絶対」の道などない。
某大手男性アイドル事務所の前社長、既に亡くなっているがその生前の事務所内のアイドル達への性加害が問題となっている。
亡くなった前社長の性的志向が「同性」という事で事務所の男性アイドルにその力が及んだわけだ。
それ自体を擁護したい、という話ではなく今回の報道でLGBT界隈が動かない事に腹を立てている者達がいたからだ。
確かに「同性愛」は少数派で報道されればそちらに意識が引っ張られる。
しかし問題は同性愛そのものにはなく、あくまで組織の上下関係による「パワハラ」「セクハラ」であり、「性犯罪」そのもの。
そして必要なのは被害者、弱者となる存在への「フォロー」。
果たしてLGBTだけの問題か、と言えばそんなわけがない。
日本全体がパワハラ、セクハラを被害者、弱者へ「我慢」を押し付けてフォローもしない社会であるからで同性愛というのはたまたまそうだった、というだけに過ぎない。
数年前の某芸人の「多目的トイレ」での不倫の件の時、彼を「英雄色を好む」として力がある者は何をしてもいい、と擁護する声が一定数いた。
加えてそうした人間は芸人を非難する人間を「力のないものの僻み」としていた。
勿論、こうした力関係を盾にした話は昔からある。
そして昔からあるという事は日本が昔から抱えていた日本全体の問題だ。
LGBT界隈だけの問題、責任ではない。
そして多様性を認める、というのは単に外の世界の価値のある物を取り入れよう、というだけの話ではない。
多様性によって得た価値観を元に自らの、多数派の問題を解決していく。
自分達自身を省みる、反省する事にもその「道」は使われる。
日本において多数派で最先端をいく「都会」から見ると時代遅れの「田舎」の問題は明確に分かるだろう。
同時に「都会」の問題も「田舎」からしか見えない部分はある。
だが都会の人間は田舎を時代遅れとしながらも田舎からの問題の指摘には無視をする。
「力のない一部の人間の問題」と都会にいながら都会の問題を無視する。
今回の全国的な知名度を誇る芸能界で最大手とも言える男性アイドル事務所の件。
単に「同性愛者」という目立つ要因に引っ張られて全て「少数派」の問題へ責任転嫁するにはあまりにも知名度が高かった。
知名度が高いというのはつまりそれだけ社会への貢献、影響も強い。
それをLGBTという少数派だけの問題とするには同じ国に生きる者としてあまりにも「当事者意識」が低くないですかね?と思うわけである。