AI絵、絵師の騒ぎから考えた事
ハッキリ言えば自分は絵描きでもないし、部外者も良いところなので外野でしかない。
AI絵師を語る者達の一部に残念な連中がいて本来のクリエイターを守るために大手イラスト投稿サイトが対策した、みたいな感じで解釈している。
自分は基本的に絵は何にも描けないけれど小学校に上がる前、園児と言われる年齢の時は絵ばかり描いていた。
小学校に上がって絵は描かなくなったのは友達も増えたし、テレビゲームをやるようになったのもある。
けれど誰に言われるでもなく、エッセイを書いてみたり、筋トレが趣味だったりする人間だ。
空想や自分の世界に入り込む事に抵抗がない、むしろ好きな側の人間だ。
他にやる事が増えたからといってそうそうやめられる訳でもないのだ、ましてや子供なのだし。
結局、思い返せばそこも原因は親だ。
記憶には何か町の小さいイベントで自分の絵、子供の絵ではあるが賞を貰った。
自分の記憶にある中では生まれて初めて褒めて貰った記憶があり、それで絵を書くのを止めた気がする。
満足したわけじゃない、納得したわけじゃない。
当時は言語化出来なかったが多分嫌気がさしたんだと思う。
自分が絵を描きまくっていた時に書いていた絵というのは基本的に特撮ヒーローやアニメのロボットが多かった筈だ。
けれど評価された、褒められたのは町のイベントに出した普段描くものとは全く異なるイヤイヤ書いた日常の風景的なもの。
「自分の書いた絵」を評価してくれたんじゃない。
「自分の取った賞」を評価した。
それから絵を書いた記憶がない。
勿論、書き続けたからといって絵描きとして成功したとは言い切れないわけだし、絵を褒められなかったから止めた程度の熱量だと言われればその通りだった。
だがまだ小学生にもならない子供に「熱量」だとか「甘え」とか「自己責任」を叩きつけるのか?と言う事。
今回のAI絵師の騒動も本来のクリエイターである絵師へのリスペクトがない連中を擁護するつもりは一切ない。
だがもしも自分にエッセイや筋トレ、そうした物に触れる機会がなく、AI絵に先に触れていたら自分は果たしてどうなっていたのか。
感謝やリスペクト、それらは「してもらった事」があるから出来るわけで「我慢」ばかりの人間にそれは不可能。
勿論、「創造する楽しみ」みたいな物も同じ。
「食事」だって男女、年代問わずの「楽しい行為」のようにされているが自分は生まれて一度も楽しいと思った試しがない。
我慢、監視、強制、普通、自己責任。
強くなれ、旧来の日本的な教育ではそれは「サイコパス」になれ、と同義だがサイコパス相手に他人への感謝やリスペクトを求めるほうが徒労に終わる。
今回の件は「もともとのクリエイター」が圧倒的多数派だから少数派である「AI絵師」が敗北した流れになったが、数が逆なら果たして誰が勝っていたのか。
その辺、「次」に備えて考えた方が良いんじゃねぇかな、と思った。
あくまで外野だから結論がフワっとなってしまった。