表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何か書きたい。  作者: 冬の老人
160/352

嫌いな言葉

自分のエッセイでは過去に色んな言葉をネガティブに使ってきたが「自己責任」や「陽キャ」にしても別にそこまで嫌いなワードというものでもない。

自己責任は全ての責任を何でもかんでも一人に押し付けて責任から逃れようとする人間、あるいはそれを弱肉強食などと理由をつけて肯定するのが嫌いなだけで自己責任自体はそこに発生する。それ時代には嫌悪感はない。

陽キャも確かに陰キャの自分からすれば理解できないところやウザい所もあるがそれはお互い様だ。

ただ、「陰キャにも理解のある真の陽キャ」などと「大人」を「陽キャの次の段階」というようにしてしまうように陰キャを「性質の異なる者」としてではなく「見下す」行為が腹立たしいだけ。

結局のところ、その言葉そのものではなく、その言葉を使って都合の良いように他人を支配したり見下したりする「人間」が嫌いなのだ。


前置きが長くなったがでは自分が嫌いなワードは何なのか、とするとそれは「ほっこり」である。

本来の意味は「暖かい様子」であるのは理解できるがそれがいつの頃からか「心の描写」の一つとして流行った頃から気持ち悪く感じられるようになった。

この自分の感じる気持ち悪さはネットでは一定数同じように感じる者がいるようで検索すると各々がその気持ち悪さをどうにかこうにか言語化しようと苦心しているのが分かる。


さてこの「ほっこり」というのは京都弁で「疲れた」などの意味が元々あったようだが全国的に広がった「ほっこり」の意味合いは「ホッとする」「温かみのある」のような物だろう。

極論にはなるが恐らくはオタクの使うアニメや漫画の語録、またネットミームに通じる言葉と同種に思える。

ある種の流行り言葉ではあるが、「陽キャの使う語録」のような物でこの気持ち悪さというのは裏返せば「公共の場で使うネット語録」のような物であると思う。


これに近い感情は最近でいうと青森県出身の「王林」というタレントが方言、訛り丸出しにしているのをテレビで見ている言語の違和感に近い。

ただ「王林」は地元のPRと兼ねている事を考えると「違和感」は感じてもそうした背景と当人の堂々とした立ち振る舞いがあるため「多数派の中でもブレない少数派」というスタイルはある種の強さを感じる。

アレを馬鹿にしたり気持ち悪いと感じるのであれば昨今言われている「多様性」を認める時流とは逆行する。

そうした時代の影響も「王林」のような方言、訛りで田舎、地方をPRする追い風にもなっているだろう。


話を戻して「ほっこり」の気持ち悪さというのはオタクなどの語録などを公共の場で発しているような物である。

オタクのアニメや漫画、ネットの語録、ミームは確かに表立って晒すようなものではないし、通常使われる意味とは異なる意味で使われる物も多い。

例えば少し小馬鹿にした風な笑いの意味でネットで使われる「草」というのは本来なら植物の「草」として捉えられる。


特定のジャンルの「同志」にのみ通用する暗号、専門用語などは前提となる知識があれば非常に便利であり、それが本来の方言や訛りなどの由来に通じる物になるだろう。

自分のエッセイでも「愛」というワードを何度か使っているがそれはすなわち「金」「時間」「労力」、そしてそれらはそれぞれ「過去」「未来」「現在」の時間軸であると最初に自分の解釈を書いた話をしてから何度も書いてきている。

それが自分のエッセイにおける「愛」という言葉の意味であり言い方を変えれば自分のエッセイにおける「方言」「語録」である。


ただ一般的には「愛と金、どっちが大事?」みたいは問いかけがあるようにそれぞれ別物というのが本来なら普通の解釈なのだ。

また方言、訛り、あるいは語録、ミーム、というものは標準語、共通語にはない違和感、独自性、ある種の「味」がある。

「普通」とは異なる「特殊性」は好き嫌いは発生するが「趣」てあったり、「教養」、そして「文化」につながり面白さや楽しさに繋がる。


「ほっこり」自体も元は「疲労する」というような意味合いの京都弁がある事を考えるとその京都弁から単に音の響きから生まれた「誤用」が元になった物といえる。

けれどそこからタレントの「王林」のような「多数派の中で少数派である事」を示すような強さもなければ「多様性」を示す性質も感じられない。

全国的に広く「温かみ」の意味合いで使われるから特殊性もないし、文化的でもない。

オタク的文化の面白みも無ければ少数派でもブレないという強さでもない。

では共通語、標準語かと言われれば誤用からそのままズルズルと、なあなあにされたまま馴れ合いで使われた産物だ。

それ自体はネットミームなどに触れている人間ならオタク語録と変わらないのだがこの「ほっこり」を始めとする「私たち」が使うから許すけれど「オタク」が使うネットミーム、語録は許さないという差別的な行為を「多数派」だから、「どの世代もやったいるから」とか、「正当化」する事も頭にくるし、「選別」する権利をもっているの自分達、という選民的な意識と頭にくる。


まぁ、アレコレと言語化しようともあくまで自分の「好き嫌い」の問題である。

深く考えず「なんとなく」で使ってる悪意のない者の方が多いのも自分でも頭では理解している。

ただ「心」の中でモヤモヤしている。

このモヤモヤした言語化出来ない気持ちを考えたり、知識を得たり、あるいは何かの体験を通して言語化することが「教訓」を作る事の一つなのではないか、と今回の話を書きながら思った事でもある。


別にタレントの「王林」さんのファンでもなんでもないです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ