結果
シンプルにここ数日具合悪い。
昨日の夕方、仕事をしながらラジオを聞いていたら「子供の自殺率」が過去最高になったという事と、それに対して対策組織が未成年や若者への聞き取り、有識者の見解などを聞いて改善していく、みたいなニュースが流れた。
涙は出ないが悲しい事は悲しい。
子供の自殺者が増えるということはつまり大人が弱者である子供を守る責任を果たしていないという事だ。
そうした悲しい気持ちになりながら次のニュースをボーッと聞いていたら、経済、経営者の話のようだった。
「結果が重要、結果を重視する」
そのフレーズが引っかかる。
「結果重視」つまりは過程を見ないと言う事だ。
何をどう取り繕うと「結果重視」、「結果が重要」という言葉は上の連中が言っちゃいけないと思う。
結果、というのはつまりどう足掻いても変えられない完成品。
結果が重要、と上が言うなら下の連中は見栄えに力を入れる。
「課程は全力でやって当たり前」
この手の話はよく聞く。
過程は全力で当たり前、結果が出せなければ無価値。
よく聞く。
よく聞くよ、小さい頃から。
結果、結果と言われても実際に努力できるのは過程だけ。
結果は努力の分だけ結果は出ている。
ただし、その結果に評価する側の人間が満足出来ないだけだ。
結果を重視し、結果に貪欲でより高いものを。
そんな考えを目指すべきは評価される側であり、評価する側ではない。
経営者側、上の立場の「結果を重視」という当事者意識の無さは被害者意識を持つようになる。
自分達が与える予定の報酬に見合わない高い結果を求める。
報酬は減り続け、要求する結果は高くなる。
そこにサイコパスみたいな「自分さえ良ければいい」という人間が結果を改ざんし始めれば真面目にやってる方が馬鹿らしくなる。
子供達は大人になればそうした社会に見を置く事に嫌気が差すだろう。
それでも希望があれば努力は出来る。
逆にいえば希望がないから努力は出来ない。
「大人」になれば過程より結果を重視される。
いかにも「子供」なら過程を評価してもらえるような表現だがそうでもない。
未熟な子供でも早くから結果を求められる。
じゃあいつになれば、何を評価してもらえるんだ?
結果を出しても「もっと」を求められる。
そうやって考えると簡単に答えが見つかる。
「生まれ持った才能」、その答えに簡単に行き着く。
何故なら子供は未熟だから。
考えるためのネタがない。逃げ道がない。
「天才』「秀才」そうした者しか評価してもらえないなら「 平凡」や「劣等生」の生きる意味は?
天才や秀才の奴隷として生きるくらいなら、自殺する。
あるいは天才や秀才と言われる自分を見下す奴らに一矢報いる。
結果を求めるのは努力する側、雇われる側。
評価する側、報酬を出す側は「評価する事」、「報酬を出す事」が過程でありそちらの側の結果は「努力した側、雇われた側」が「報われた」と思って貰える評価と報酬を与える事。
それぞれの立場によって過程と結果が違うのに軽々しく「結果を重視」と言うんじゃない。
そんなふうに思ってラジオを聞いていた。
また今日も「SDGS」の話がニュースから流れてきた。
「子供」を社会に参加させて地域への愛着や社会的役割を〜とか何とか。
子供は自分の愛を親に、社会にむけなければならない。
何時に成れば子供は「自分」の事に愛を向けられるんだ?
なんか、最近愚痴みたいな話になりがちだな。そろそろ楽な話題に切り替えた方が良い気がする。
とか言いながらまた愚痴っぽいの上げそうだけど。