80点。その6.5(6の続き。)
数年前、農家のバイトマッチングシステムが出来上がった時に自分はSNSで農家の声を探った。
何故ならまだそうしたマッチングなどの概念が無かった時はラジオなどで大手を振って「地域貢献」や「農作業経験」などを盾にして「ボランティア」を求めていたのが農家、そして農業団体だったからである。
自分のエッセイで何度か書いている言葉を持って来れば「サイコパス」それが日本の古い社会の教育によって形成される日本の大人であり、時代遅れの田舎ではまさしくそれが当てはまる。
そのサイコパスの日本の古き大人の姿の最たる者達が農家。報酬を与えない、最低限の力で最大限のリターン。
それを無意識に選ぶ。
勿論、中々そうした古い田舎の人間がSNSをやるというのは少ないのだが若手もいる。
農業バイトマッチングのシステムに対してそうしたSNSのアカウントを持つ「若手」の農家の声を聴きたかった。
勿論、人手が慢性的に足りない農家からすればありがたいという言葉があった。
しかし同時に「手伝い」の神聖化、「無償奉仕」や「地域貢献」の正当化で「食べ物」を作る農業についてはお金を求める行為は悪であり、なおかつ自発的にしなければならないという価値観の人間もまたいた。
まぁそうした「ネガティブ」な意見を「探す」時点で自分自身が「不満」と「我慢」で農業に接しているという表れでもあり、そのネガティブな心の「共感」を求めていたのかもしれない、というか多分過去の自分は無意識に「ネガティブな意見がある筈だ」と決めつけてSNSの呟きを探していたのだ。
だから探して見つけた、というよりと見つけるまで探した。
だからといってそれが少数派の意見なのか、というとあくまで「SNS」をやるような若手農家として少数派というだけ。
農業全体として見た場合、やはりそのボランティア精神、そして無償奉仕を求める性質、農家ではない他業種の人間への無理解でありながら自分の事はわかってほしいと甘えるサイコパス的な精神性はやはり多いとは思う。
そしてこの精神が田舎に根付いているからこその「遠い地への応援」から始まったふるさと納税の理念の形骸化、スシローの件から始まった次々と模倣犯の生まれた悪さと自由を履き違えた「馬鹿者」、いじめ被害者への自己責任や「いじめられる方も悪い」論。
海外からの農業の技能実習生、という体裁の「現代の奴隷」と揶揄される状況。
他にもそうした「悪」とされる事は多いが全て一言「田舎者」と括られれば残念ながら言い返せない。
それが現在の「田舎」であり、「古い日本」。
つまるところ時間を他人のため、子供のため「未来」のために使った結果、都会が発展した。
それに対して田舎は自分のため、大人のため「過去」のために使った。だから衰退する。
それについて都会が良いとも田舎が悪いとも、自分は言えない。
何故なら過去を選んだ時点で田舎は「死」を選んだ。
死にたい、と思う心を自分は否定できないから。
しかし悪いのは「死」を選びながらもそれの肩代わりを子供達、若者にさせて老人、大人たちは「自分達の青春」の続きをしているから。「自分達の若さ」を正当化したいから。
100点を目指す男たち、我慢していれば60点でも男が支えて守ってくれた女達。
仕事などの技術的には進歩していったかもしれない。
しかし人間としては「80点」の人間、自分のエッセイで定義する大人など、親など何処にもいない、あるいは少数派。
だから田舎の老人は威勢がよく元気だが「若者」だった過去からずっと「時代」を見ずに田舎という社会の「皆」と肩を組む。
だから若いつもりだから「受け身」であるし、「死」に対して、「老化」に対して無頓着。
教訓もない。あるのは若者に与える語り継がれるべき教訓ではなく若者と取引するための有償のノウハウ。
だから相対的に見れば愛を与えるべき子供達から愛を、金、時間、労力を奪う事になっている。
それは時代を経るにつれ、田舎の子供が比べられる事になる都会の同世代の子供、あるいはネットで繋がる事で世界の子供達との差がどんどん開いていく。
田舎の文化から「教訓」がドンドン持ち出され都会が真似して田舎の強みはなくなる。
いずれそこに残るのは「思い」という名の「弱音」のみ。
そしてその「腐敗」は都会が我慢を強いられる環境となれば都会の田舎化。
都会の田舎化はもう始まっている以上は未来を考えると子供の大人化は急務。
「世界と渡り合える大人を急いで作る育成」、つまり「大人養成」。
結局過去のエッセイと堂々巡りの答え。だが80点を目指すというのはつまり「未来」を考える、という事になり得るのである。
4000文字とか流石に長いと思ったのでブツ切りだけど二話に分けました。