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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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意識のアップデートとやらの前に。

ルッキズムに絡めてなんだけど色々な所で「古い価値観」を否定される。

自分もまたエッセイで否定したりするわけだがそれはエッセイだから、つまり自分で一人でアレコレ語るから許される、というか許可をとる相手がいないから好き勝手書いているわけだが。


基本的に別に誰にも迷惑かけてないなら「古さ」も良い。

だが現実的にはその「古いもの」に対して維持のための労力や時間、金が奪われていくわけで現実と向き合うと「悪」でしかない。

だから「新しい価値観」へとアップデートが必要だというわけであるが、本当に必要なのか。

「死」を考えている人、終わろうとしている人に「新しい価値観」が本当に必要なのか。

とある人間が言っていた「ホームレスは好きでホームレスをやっている」と。

その話が本当ならば「古い価値観」で生きようとする人間は「新しくなる世界」から自分から取り残されようとしている。つまりそれもまた「死にたい」と願っているとはならないか。


「古い価値観」にしがみつく人間を「死を望む人間」と定義した時にそれでもなお「新しい価値観」のアップデートをその人達に望むのは言うだけ無駄ではないか。

と、いうのは極論であるのは百も承知。

ただ今回からの最初に書いた「ルッキズムに絡めて」というのはその「新しい価値観」とやらが本当に「新しい価値観」なのか、それとも「自分達にとって都合の良い価値観」なのかが微妙なところ。

ネットなどでそうした「新しい価値観」を他人に求める人に「では具体的それは何処でわかりますか?」と尋ねても「そんな事、自分で考えて下さい」としかまともに帰ってこない。


彼等の語る論の理屈というのは常に「外の世界の皆」がそうだと言うから「正しい」というもので結局はルッキズムを肯定する人間の「社会の皆」がいうから「正しい」、というのと同じで「自分にとって」都合の良いコミュニティへ「個人」を誘い、コミュニティの中で孤立させる事で「お前の価値観は古い、新しい価値観が多数派」と他人を支配したいだけにしか見えない。

日本全体で見れば「大卒」が過半数を超える「学歴社会」であるのは確かではあるが田舎に入れば「大卒」が少数派となる。

結局、「数」の力で「多いから正しい」と言う暴論を推し進めた結果が田舎であったり、廃れるコミュニティであったりする。

「みんなやってる」と言う多数派だから正しいと言う理屈は「流行り」以外の価値は皆無だ。


そうした多数派だから正しいと言う理屈、つまりは「他人との比較」は比較対象がいる。

「多数派だから正しい」、と人を支配しようとすれば必ずその多数派の出どころを求められる。

そこで「本当に人間が進むべき未来の価値観」だと責任を持って言い切れる人は理屈とその出どころを用意して教える。

何故なら自信があるから。

けれど「自分に都合が良い価値観」でしかない場合、責任なんて持てない。

だから次は立場を武器にする。

「情けがない」と自分の責任を棚に上げてそう告げる。

それは「古い価値観」の人間のやってきた事とそっくり同じ。


結局のところ、「陽キャラ」と言うのが一つのワードとして社会においての成功者のようにもてはやされて久しいが「光の中にいる」事に価値を見出して、そこに正義があるとすればそれは若い内だけだ。

スポットライトは「綺麗」で「強く」、「騒がれる」そんな物にしか向けられない。

自分が「筋トレ」を日本人こそするべきだ、と過去のエッセイで語ったのも自分の考えた理屈もあるが自分の生きてきた中で社会的にも何度も「スポットライト」が当たっては消え、当たっては消えてきた。

「ウォーキング」「腹に巻くだけで腹筋運動」、「ブートキャンプ」

色々な流行りが生まれ、そして時代で消えていったがいずれの流行りも根幹には「トレーニング」があり、ずっと昔からその有用性、必要性があったと言う証明にしかならない。

ただその時代、状況でたまたまスポットライトが当たった部分がある、「流行りの方法」があると言うだけで筋トレ自体は流行りとは無関係で今もまだ求められている。


話が逸れたが、人に何かを望むなら「多数派」である事や「流行り」である事よりも「責任」を示さなければならない。

そして得られる「報酬」を示さなければならない。

「根拠」を示さなければならない。

結局の所、それは「仕事」に通じるし、「教育」にも通じる。

立場の弱い側は「狡さ」から「自分にとって都合の良い価値観」を根拠にする。

その弱い者の「狡さ」を「正論パンチ」でカウンターで返すのは楽だけど、それをやればいずれ自分が弱い側に立った時

正論パンチで返される。

だからこそそれだけ強い側、あるいは強いと自称する者は「強さ」ではなくその「懐」を示す必要性がある。


懐の漢字の由来を調べてみると「心」を意味する「りっしんべん」と「涙を衣類に垂れ流す象形文字」からなるという。

「弱い」から涙を流して狡さに甘える。

「強い」「正しい」と思うのであれば責任、報酬、根拠を示して心の中で泣け。

他人に「新しい価値観へのアップデート」を求める自分、あるいは「古い価値観が正しい」と強く正しい側の人間だと思うならこそ「懐」を示せ、と思う。




似通った結論のエッセイは何度も書いた。

同じ事を手を替え品を替え語る意味があるのか、と言えば自分にとっては欲求解消ぐらいの意味しかない。

貧相な人生と人生観だ。本質的には伝えたい事など今現在150話くらいエッセイを書いているが結論だけで分類を分ければ数種類しかないのだろう。

それでも書いているのは「数撃ちゃ当たる」しか今の自分にはないからだろう。

頭が良ければ標的に対して1発でズドンと万人が納得するエッセイ一つ書いて終わりかもしれんが、自分の手元には書けば脱線ばかりの命中精度の低くて威力の低い古くさい拳銃。しかもたまにヘラッて弾がジャムりやすいというオマケ付き。

だから標的、自分の中で伝えたいことを伝えきるには何発も撃たなきゃいけないんだな、コレが。

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