大人養成その1
前話での「子供の社会」だか勿論、本来なら弱者である子供に社会の土台となり、大人を支えろ、というのは無理な話である。
結局のところは「大人」がその土台や枠を作らなければならない。
だがその大人が「時代」について「遅れ」をとったり、「進み過ぎる」場合に問題が発生している。
都会での生活を時代遅れの田舎の生活、男尊女卑、家父長制、そんな生活には戻せない。
かといって都会でも極一部の富裕層にしかできないような生活スタイルを基準にする事はできない。
ある程度の時代の基準を全国で統一し、「田舎では暮らせない都会人」も「時代についていけない田舎者」、そうした弱者を極力出さないようにする。それが国力、国際社会そのものへの競争力強化にも繋がる。
本来なら上記の理念の元に作られた制度が「義務教育」の側面の筈だが、その義務教育の範疇、中卒は現代日本ではほぼいない。
高卒が95%以上、そして全国全体で見れば半数以上が大卒。
ただ、大卒については以前見たデータでは都会では60%から70%近い高さの割合だったが田舎となると40%以下、という所も。
それでも人口が田舎が多ければまだしも東京都のある関東地方、そして大阪、京都のある関西地方の2つを合わせた2大地方の合計がその他の6つの地方の合計よりも上回っている。
もはや言い逃れするには不可能な所まで差がついてしまった。
義務教育がもはや最低限に満たないのである。
子供は大人になるための「権利」として教育を受ける。そして子供は大人になる「義務」がある。
しかし大人は、親は子供を守る「義務」として教育を受けさせなければならない。その義務を守る条件で子供と一緒に暮らす「権利」を与えられる。
今までは一応は「教育」の体裁をとってきた。
勿論、大人全員、親全員が無責任な者とは言わない。
しかし、それが増えていく。
「我慢の文化」「田舎の問題」「弱者」
様々な問題が可視化されていくのに全て「当事者」の責任として臭い物に蓋をする。
蓋をしたものが壺か、あるいは部屋か分からないがもうそのツボは使えない、その部屋は使えない。
それでもなお「人手が足りない」と人を増やせば部屋は足りなくなり余裕がなくなる。
そうなればまた同じ事の繰り返し。
臭いものに蓋をし、余裕と快適さを手に入れたのに気づけば余裕がない。
余裕のなさからトラブルが発生し、問題が生じる。
そこにはまた責任の所在を探す事になり、その中で弱者に矛先が向かう。
弱者に不満を向けさせ、弱者は我慢を強いられ、最終的にはまた我慢の限界を迎えた弱者が反発、だからまた臭いものに蓋をする。
そうやって繰り返していけばやがて臭いものに蓋をし続けてきた、その建物自体が「臭い建物」として人が去っていく。
そうやって日本の田舎は廃れ、そして去った人が向かったのは都会である。
だがそれも急速に現界に向かっている。
そもそもとして「早く大人に」の日本が「強い人間に」の西洋の教育をそのまま取り入れる事は無理だった。
カスタマイズし、少しずつ。
しかしその「少しずつ、しっかりと」という事自体がそもそもとして「早く」と急かす日本人は不可能な人種だったのかもしれない。
だから言ってしまえば「早さ」と「強さ」を「両立」させることは不可能という結論が無責任な大人、多数派の大人、親によって証明され、可視化されている。
ではどうするか。
「教育」を止めれば良い。
では「教育」を止めればどうなるか。
勿論子供はそのままでは死ぬだけ。
「早く強く」ならなければならない。
だから「教育」ではなく「養成」になる。
「教育」と「養成」。
この手の「育てる」意味合いの言葉では「育成」何かも言葉としてある。
ただ日本人ならこの同じ「育てる」の意味合いでも微妙なニュアンスの差、違いがあるのは感じ取れる筈だ。
「学校教育」、あるいは「家庭教育」などがある。
しかし「学校養成」も「家庭養成」はない。
一方で「スポーツ選手養成」や「ビジネスマン養成」といったものはある。
共通点は「育てる事」、ただし違いは2つ。
・ゴールが明確かどうか。
・無駄があるかどうか。
子供を早く、そして強い大人にするためには「教育」の下限を引き上げる必要があるがそれには日本全体が、そして日本の大人が責任をもって日本全体の子供に愛を注ぐ必要がある。
「自分の子供さえよければ」という、つまりそれは遡れば「自分さえよければ」という事を「競争」という名称でボカしていた。
勿論「競争」自体は能力を上げる、品質を上げる、という意味では必要な事。
しかし「見栄」や「責任逃れ」を正当化するための競争は果たして必要か。そしてそれらを正当化すれば弱者を我慢させる事に繋がる。
弱者、つまり子供を我慢させる。
そして制限するべきところは制限し、自由にさせるところは自由に。
そんな当たり前の事を理解し、子供なや「教育」できる大人が日本社会を構築するのであれば「教育」 のままでいい。
しかし、それが出来ない以上はそうした物を排除する。
そうした物、即ち「親」の排除である。
基準に満たない親を排除し、「プロ」の教育者などによる子供を時代に求められる力をもつ大人にする「養成」をする事になる。
子供から親を排除、つまり「古い価値観」を影響させない。つまり古い時代の人間が抱える「古い弱さ」を切り捨てる事。
その時代にある問題とは「その時代の弱さ」のみ。
それが自分の想像する「子供の社会」である。