ズルさは誰のもの?
「大人はズルい」とはたまに聞く言葉。
昨日、「ショッキングな動画」がツイッターのトレンドを飾った。
早い話が自殺動画である。
女子高生、しかも2人。
飛び降り、そして動画の最後には何かが衝突する無機質な音。
それが自分にとっては特別ショッキングではなかったがトレンド入りするくらいに世間の衝撃は強かった。
そしてそのショックへの対処として動物などの愛らしい画像や動画を投稿し、善意からそのショッキングな動画へ辿り着けないように工作する者。
それに対してこの期に及んで不謹慎だ、と嘆く者もいた。
また何故そんな動画が拡散され、なぜそんな事が起きたのか詳細をまとめて説明する者もいた。
一方で悪者探しを始め、責任の追求を始める者も。
大抵はそんな所だろうか。
また、ミソジニーについてもトレンドになっていた。
まぁ、こちらについてはいつものパターンではあるがミソジニーの思考を責める「自己責任」である。
まぁ、自分にも偏見やレッテルがないとはいえない、というか基本的には自分の事しか知り得ない以上、他人や社会などレッテルや偏見ばかりだ。
だからエッセイの最初の頃から「愛」で繋がる必要性がある、と自分は主張している。
愛とは金、時間、労力。
金とは過去の象徴。
時間は未来の象徴。
労力は現在の象徴。
他人に自己責任を求める時、過去を見ようとしない。
そりゃそうだ。愛で繋がっていないから。
だから他人の現在に至るまでの過程、しがらみや環境などお構いなし。
どうした問題を抱えているかも分からない。
ただそこにある「問題」について「労力」をかければ良いとしか考えていない。
そしてその労力についても対価を与えない。
これも愛で繋がっていないから。
他人に対して「問題を解決しろ」と迫りながらその報酬は知らんぷり。
全て「お前が悪いんだから自分でどうにかしろ」と言う。
「何が問題なのか」も教えない。
「どおしてほしいのか」も教えない。
じゃあ「何も変えようがない」じゃないか。
それに対して「問題を探すのも悪人のお前がするんだよ」と言う。
問題を探すために時間が奪われる。
コレが問題か?と示し、正解が出るまで悪態をつかれながら探し続ける。
自分の中の愛が他人のために消えていく。
「他人の為」から「他人の所為」になるのも簡単な事。
自己責任。確かにな。そんな他人の気持ちを無視をするという選択をするべきだった。
「誰かの為に」「困っているなら助けたい」「何が悪かったのかな」
基本的に普通の、性善説で成り立つ日本人として生まれているから一般的な考え方だよ。
でもそれを「間違い」と学習させてくれたのが「自己責任」と口にする大人達と社会。
「大人はズルい」
そうだろうか?
自分はそうは思わない。
「弱いからズルい」
それだけだ。
ズルさを肯定して良い訳がない。
だが事実として「大人はズルい」が通じるような多数派の社会なら「ズルい大人は弱い」という事を認めなくちゃいけない。
これは自称「強者」である「勝者」、そして多数派が認めなくてはならない事だ。
ズルいと言うのは「弱者」のもの。
力も権威も知識もない弱者の「特権」かつ「術」だ。
大人が子供に使って良い訳がない。
多数派が少数派に使って良い訳がない。
立場が上の者が下の者に使ってはいけないもの、それが「ズルさ」だ。
だから女子高生が飛び降りの件では原因となった「大人の男」は逃げようとグダグダ騒ぐのは「情け」がない。
だからその男に「情け」をかけなきゃいけない。
時間と労力をかけ、徹底的に柔軟に男を詰める。
ミソジニーについても同じ。
ズルさ、「狡さ」。
狡の字は「けものへん」に「交わす」と書く。
狡さを肯定するという事は「ケダモノ」を肯定する事。
そして交わすとは「回避」。
根本的な解決ではなく、後回し、「逃げる」事に繋がる。
そして「交わる」と書くように交差している。
但し、重なっているのは一点だけ。
その一点に全てをかけてケダモノのように逃げる。
「責任」を押し付けて、「問題」を押し付けて、「負担」を押し付けて。
という事で弱者男性の自分は読者にエッセイのそれぞれ解釈を任せて狡く一方的に去るぜ。
前も書いたけど他のところで漫画の考察してるんだけど、あんまりこっちにも支障がないように感じる。
むしろ、「出してしまえた」からスッキリしてコッチも書ける。
まだやり始めただけだし、向こうにはフォローされてるのも0で本当に頭の中の妄想をたれ流ししているだけなんだけど、やっぱりそうしたちょっとした「拘り」でも出して解消しておかないと便秘みたいになってしまう気がするよ。