2つの教育その3
日本を批難するばかりで西洋贔屓か、といわれそうだが結論は最初に語った通り「両方のバランスを取った教育」だ。
つまり西洋的な「強い人間を育てる」教育もまた問題がないわけではない。
数年前に広まった言葉、「ポリコレ」。
日本だとポリコレ棒と揶揄されていたりするが「弱きを助け強きを挫く」という建前で気に入らない表現などを叩くわけだ。
ツイフェミなどもよくやる行為で「性的消費」だのという言葉も広まった。
日本の「早く大人へ」という早熟の教育、「自分の代わり」の大人を子供に求める「責任の押し付け」によるサイコパス的教育と比較するとこれもまた最終的には偏りすぎる事でサイコパス的教育へと向かう事は変わらない。
西洋の「強い人間へ」という教育は早熟の逆。熟すという事だ。
農作物などはしっかり栄養や味を蓄えた熟したものが好まれる。
現代日本は所謂欧米化が進んだ以上、社会そのものが西洋風に変化し、この西洋的教育が馴染む社会となった。
欧米化が進んで様々な価値観が日本に流れて、元々の日本の文化と融合しさらに新たな価値観が生まれたわけだがそれによって良いことも生まれたし、悪い事も生まれた。
良い点、悪い点を挙げればキリがないし、自分個人がそれを全てを把握しているわけでもない。
ただ言える事は良いも悪いも表裏一体。
そして誰だって良い点は享受しても悪い点は手にしたくないという事。
「様々な価値観」、異文化、多様性を得た、という事が最もシンプルな事ではある。
西洋の教育、「強い人間へ」というのは一見すると早熟を目指す日本の物と比べデメリットがないように感じる。
だがどんな物でも問題はある。
それはシンプルで熟れすぎれば腐るように「強さ」を押し付ける事。
日本の教育では早熟を求め、子供に対して「責任」を押し付けた。
西洋のそれでは強さを押し付けた、という事はつまり「弱さを認めない」という事。
大人になる事について早さ自体はそこまで求めない代わりに絶対的な強さ、身体能力や容姿、経済力、コミュ力、人格そうした諸々の能力について高い水準を求める。
高い能力とその能力の行使を求める。だからメンテナンスとしてフィジカル、メンタル問わずジムやクリニックなどが充実する。
弱さを認めない、だから逆に考えるとポリコレが意味するところは弱者側の主張ではなく、強者が社会の問題を解決しているだけなのだが日本語で言えばそれは「大きなお世話」なのだ。
つまり日本は多数派が少数派が抱える問題を自己責任で追いやる、「臭いものに蓋をする」が逆に西洋ではその少数派の問題を多数派が解決してしまう。
少数派が抱える問題、確かに多数派が社会において絶対であるため少数派の意見を無視しないでくれるという点は良いのだが「大きなお世話」となると問題解決の主導権が少数派、つまり当事者ではなく多数派に成り代わる。
確かに少数派の問題を多数派が解決すれば効率的ではある。
しかしそれは学校で起きた子供同士の喧嘩に親が銃を抱えて出ていくような行為。
小さな問題に対して強過ぎる力で解決をしようとすればさらに大きな問題が出てくる。
抱っこ、オンブの話で言うところの抱っこ文化においてのデメリット。
子供という弱者を真正面から見るために子供が抱えている問題全てに対して親という強者が認識してしまう。
子供の問題を親が把握するのら確かに大切だ。
しかし問題を把握するのと解決するのとでは話が違う。
問題とは「過去」の象徴。
では問題を未来に据えれば「課題」になる。
臭いものに蓋をしてもダメ、かといって問題を他人が解決したら成長のための「課題」を取り上げる事になる。
日本人は元々オンブ文化、だから臭いものに蓋をする。
西洋の文化が入ってくるまではそれで良かった。少なくともそれでも社会は回っていた。
ところが西洋の抱っこ文化で蓋をしていた問題がドンドン曝け出された。
そしてさらなる問題として女の土台に男が乗る、サイコパス的感覚が元となった優先順位がつけられる。
緊急性の高い物からこなす必要があるのだがここでサイコパス的感覚で言えば既に曝け出されている問題で「緊急性」の高い、つまり「価値の高い」問題のみを解決する。
それで「価値のある仕事」のみで満足し、優先度の低い物を無視する。
日本人の問題は優先順位がつけられた、という事を「解決していく順番」ではなく「価値の順」とする。
10の問題があってそれぞれに優先順位がつけられたとしても結局は全てこなす必要があるのに、何故か緊急性の高いものだけこなすと「次の問題」を要求する。
教育でこのサイコパス的教育が日本で行われているから「親の都合」を優先させ、「親の希望」押し付けて、「親の手間」を基準に考える。
子供の希望や拘り、能力を無視してドンドン解決したつもりになる。
教育したつもりになる。
しかし解決しなくてもいい問題などない。
そして子供は本来解決出来ない問題は親の元に持ってこない。
子供の問題は親の問題。
そしてその親が問題を解決出来ない理由は親自身が過去に抱えた問題に見て見ぬふりをしてきたから。
問題は全て解決する、それが大人であり親。
だが大人も、そして親もまた人間。解決が困難な時もある
以前のエッセイでも同じ事を書いたがそこで謝れる大人、親こそが子供の問題を解決する事と同じくらい大事。
それが出来る大人が増えれば日本は良くなるだろうけど、結局のところその大人も昔は子供。
敗者は結婚する力もないのが現状。
大人を変えるために子供を強くする。
そのために子供を育てる大人が変わらなければならない。
卵が先か、ニワトリが先か。
だが明確なのはどっちみち「変化する」という結果そのものは大人が行わなければならない行動であり、大人にしか出来ない事。
少数派の賢者は既に変化を選び、少数派の敗者は終わる事を選ぶ。
多数派の勝者は終わりたくないが変化するのも嫌だとゴネる。
そして変化しなくてはならなくなったのは敗者の所為だ、と責任転嫁。
終わるのが選べないのは賢者がそうすれば良いと言ったからだ、と責任転嫁。
自己責任、多数派が少数派にぶつける時は目を輝かせてその言葉を投げつけるのにいざ自分の番になると…。
情けがない。
だから皆で、皆に向けて。
情けを、愛情をかける事を惜しまないようにするしか抱っことオンブ、バランスが取れないんじゃないかな。
某所で自己満足ではあるがとある漫画の考察を書き始めた。
コッチでも書きたい事まだあるのに、手だけ広げてしまった。
馬鹿な事をしたと思っているが我慢出来ないのである。
やってしまった以上、アチラもコチラもしっかり納得いくまで書かなければ。
と言う事で見てくれてる人には悪いけどさらに投稿の間隔が延びるかも。