二つの教育、その1
抱っことおんぶに分けられるように2通りの教育がある。
勿論、理想としてはこの2つのバランスを見極めて時と場合に応じて抱っことおんぶ、自由と制限の天秤をかける事が一番の教育なのは分かりきった話だ。
以前の話において自分がおんぶに対してネガティブな意見側で語ったのはその話のきっかけになったラジオで日本の「おんぶの教育」とそこから生まれる文化をを持ち上げ過ぎて神格化し、気持ち悪く感じたからあえて否定的な立場で書いた。
「抱っこ」の文化にも勿論利点があって問題もある。
とはいえ、自分は前話で日本には元々サイコパスというものを定義する言葉がないのは日本古来の価値観における「大人」こそが日本のサイコパスなのではないか、と語った。
流石に大人が皆サイコパス、とするとそれは極端な話にはなるのだが日本人の文化、教育の行き着く先にはサイコパスを肯定する社会のように思える。
現代社会において日本でもサイコパスは忌まわしい存在とされているがそれは欧米的価値観の流入とサイコパスというワードの言語化があってこそ。
それがなければ「それが大人」と、あるいは「偉人」とされている人間が多い気がする。
自分も過去に「男女の性質」を手に入れる者が大人であり、それを最初から持っている人間をサイコパス、と私見をエッセイにして投稿した事もある。
だからあながち日本文化における大人はサイコパスというのはかなり近い気はしている。
そこで日本人の「おんぶ」文化と西洋の「抱っこ」文化の他にも日本と海外とで異なるものは何か、と考えた時にやはり「我慢」と「反発」。
どっちがどっち、と説明するまでもないがおんぶ文化の日本人は我慢しがち。
一方で西洋の抱っこ文化では理不尽な要求には突っぱねる。
サイコパスが日本において言語化されないのは皆が我慢する前提であるため、サイコパスが誰かから奪っても我慢の選択肢となり、表面化しにくい。
むしろやられた側が悪い、と自己責任としてサイコパスの責任を問わず被害者を責立てる。
一方で西洋の反発する事が前提の社会では些細な事でも言い争いや殴り合い、最悪殺し合いに発展する。そんな環境ではサイコパスかこっそりと何かしようとしても反発されてすぐに表面化する。
もっとも、サイコパスなどの個人レベルの話以前に人種などの大きな問題が抱えられているわけだが。
しかし差別の問題についてもそれ自体が「人種」レベルでのサイコパス的性質の問題と考えれる。
根本的には「人」の問題である以上、そこには「男女」がある。
ポジティブ、ネガティブの「陰陽」がある。
そして「強弱」がある。
「人種」と言う枠の「人間」と見た場合そこにはやはり「サイコパス」と言う人種、都合よく立ち回るコウモリが潜んでいる。
話はそれたがそうした西洋の場合でも今現在でも「差別」をテーマに争いが起きているというのはやはり互いの反発の力が強い。
そして日本ではそれを「我慢すれば良いのに」 「下らない」と冷ややかな目を向けている、そんなふうに思える。
まるで下らない事で争う男達、それを様子を傍から見て呆れている女性のようだ。
男は海外の、女の反応は極めて日本の。
いつも通りの展開ではあるが自分にはそうとしか思えないのよね。