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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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間引き

農業をやっていれば否応なく「間引き」 というものにぶち当たる。

農業以外でも「無駄を省く」という行為を人間は生まれた頃から、あるいは卵子と結合するための精子の大半が脱落する事を考えると人間として生まれる前からずっとやってきているのかもしれない。


間引き、といえば最近なんかは人間に対しても使われる。

しばらく前に学者さん?職業は忘れたが頭の良い人が「老人を殺せ」というような事を言ったり。

あるいは別の人だけど低所得者だとかあるいはホームレスといった人間もその「間引き」の対象として挙げて炎上したり


ただ一応理屈を作って「間引き」の正当性を語る。

一方でそれを批難している人間でちゃんとした理屈で反論してる人間は少ないように思える。

ちゃんと理屈を立てて「論破」されていたのなら炎上なんてするまでもない。

というかそうした理屈を組んで「人間の間引き」に正当性を持たせる相手に納得させるならまともに論破させるしかない。

間引きに対してまともに反論できないから炎上させるしかない。発言した人間をサイコパスや犯罪者かのようにレッテルを貼る。

やってる事はどっちもどっちじゃないか。



結局のところ「人間の間引き許容」の類の発言で炎上した人間を炎上させたのはどちらかというと「間引きされる側」の当事者じゃない。

老人を間引く、って話の件については炎上させる側に該当する高齢者もいたかもしれんが炎上させた側についた時点で加害者でもある。

当事者じゃないけれどまともな反論できずに炎上させるしかない。

そもそも何故反論するのか。

善意か、常識か。

そんな殊更な考えが多数派を動かす原動力になるならなんと素晴らしい社会になるだろうか、と皮肉っても仕方ない。


自分の考えを述べれば多数派が理屈で論破ではなく炎上させた理由は「怖いから」

自分が間引きされる側に選抜されない保証がない、転がり落ちない自信がない。

自分以外でも身内の人間がそうなる可能性がある。

老人、という話に至っては健康的に生きる事ができれば多くの人間がそうなってしまう。

だから理屈の通った反論が出来なくても「情」に訴えて「多数派」による攻撃をしかけるしかない。

だから人間の間引きの提案をした人間を炎上はさせるがその間引きされる側の弱者そのものは気にかけない。

間引きされる側当事者から見れば蹴落とされたり、見下されたり、そんな事をされたのは「間引き」発言をしたような者よりそうした人間を炎上させた多数派の人間からの攻撃の方が多い。


間引き発言をしたインフルエンサー、社会的強者達からすれば「間引きされる弱者」も「間引きされる側に落とされるかもしれないと怯える多数派」の人間も大した違いはない。

間引きされる側の当事者である弱者からすれば「間引き発言で炎上した者」も「炎上させた多数派」も前者は理屈で、後者は物理的、あるいは精神的な暴力で痛みを与えてきた加害者で違いはない。


ではその多数派はどうか、と言えばそれも多分変わらない。

多数派はそれだけで力がある。理屈もいらない。

ただ多数派であるというだけで正当化される。

頭が良い少数派が理屈を捏ねたら数の暴力で黙らせ、能力の劣る少数派が訴えを起こせば自己責任で黙らせる。

少数派であると言う時点で多数派には圧倒的に不利である。


間引きされる側はサイコパスのレッテルを貼られ…と先述したが実際そう思われても仕方ない。

何故ならその間引きの理屈には「社会的強者に無能や役立たず、高齢者などは死ね、と言われたら怖くて萎縮する」という極めてシンプルな理由で論破出来る。

いくら理屈をこねようとも社会は肉体的に弱者である人間が自然淘汰と弱肉強食の理に立ち向かうために作り出したシステムであり、武器。

弱い者を守るのが社会というものの基盤なのにそれを根底から覆す話が社会の中であっていい筈がない。

それほど弱肉強食が好きなら自然と獣と闘えば良い。

そんなシンプルな事に気がつかないで、あるいは気づいているがそれを気にも止めないか、気づいて利用するために炎上するのなら所詮はその程度。

「賢者並みの能力はあるがどこまでいっても賢者になれない人格」だから早計ではあるがサイコパス判定されても仕方ない。


問題は多数派。

多数派という武器があり、誰でも思いつける「立場が上の者から死ねと言われる事が怖い」という感情をぶつければ論破出来るのにわざわざ炎上させる。

敗者から見れば変なプライドが邪魔しているだけにしか思えない。

「多数派」である事を「普通」として「正当性」があると言う感覚。

「多数派」だから自分達に「正義」があると驕る。

「怖いから死ねというのはやめて欲しい」という自分達の弱さ、力の無さを認めるのを嫌がっているよう思える。


敗者であり少数派の自分は自己肯定感を犠牲にして助けを訴えても我慢を強いられる。

勝者で多数派の連中は訴えずにそれを求める。察してもらって当然。弱さを認めたくないし、そんな恥を晒したくない。

だから勝者がサイコパス、とレッテルを貼った者に馬鹿にされる。


何故日本にはサイコパスに相当する言葉がないのか?

勿論、現代において医学的にはそうした物を表現する言葉があるだろう。

しかしここで言いたいのは日本古来の文化的な視点からのサイコパスに相当する言葉。

モンスターを妖怪や物の怪などと言い表すようにサイコパスに相当する古い日本語的表現の言葉がない。

エッセイを書いて色々考えている内に人間を能力によって選定するサイコパスこそ日本古来における「大人」の在り方。

つまり古い日本の価値観そのものじゃなかろうか。



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