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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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抱っことオンブ

あるラジオ番組でこんな事を聞いた。

「日本の教育はおんぶ、西洋の教育は抱っこ」

後ろに背負うおんぶ、前に抱き抱える抱っこ。


西洋の抱っこは前に抱き抱える事で子供が親と真正面に向き合う。

おかげで子供の視界は親しか存在しない。

一方で日本のおんぶは親の背中に背負われて子供の視界には親の顔が見えない。しかし親と子供は背中越しに密着し安心でき、子供の視界には親の顔ではなく広い世界が広がっているのだ、と。


そうやって男の某タレントが日本古来の教育文化を持ち上げるような語り、それに「成程!」と納得した様子のアシスタントのラジオ局の女性アナウンサー。

確かにその側面はあるかもしれない。

しかしその教育文化の違いを語る際に二刀流のメジャーリーガーを例に挙げて広い視野と能力を大前提にその日本の教育を語っている。

物は言いようだ。

もしかしたら確かに二刀流メジャーリーガーはそのような教育で育ったのかもしれないがそれはそれだ。

皆それでイケるなら、皆二刀流でも三刀流でもしてる。


結局の所、日本の教育は「親の仕事の片手間」で行う物であり、おんぶによって視界に親以外の世界が入ってくるのはただの結果論。

何かのついで、何かと同時進行、無駄なく。そうしていけばどんどん余裕が消えていくのは目に見えている。

海外、西洋の教育は抱っこ。どうしたって子供のために両手が塞がる。仕事と育児の両立は不可能と切り捨てた文化といえる。どちらかに集中せざるを得ない。

このエッセイで「拘り」をキーワードにしているがこの場合、「仕事の片手間」の日本のほうが拘りを抱えている。

育児と仕事を切り分けず、曖昧にしたまま仕事をする。

親側の「仕事優先」という拘りを抱えている。


その「日本古来の文化」が許された理由は子供が泣いても問題ない環境で仕事をしていたから。

おんぶで身体を密着させられる、とはいえ原始時代でもない限りはいくら粗末でも人間は衣類を身につける。

密着した所でその肌に感じるのは衣類の感触。

衣類という障壁越しの感覚。

また泣き叫んでも許されたのは田畑など広い土地で少ない人間、しかも身内だけの環境で作業をしているから。

現代社会にそれを当てはめて何とかなる仕事は中々ない。

農業にしても人力でクワやジョウロ、カマなどで作業しきれる小さな土地では仕事として成立しない。

現代農業は機械が大前提。

そのなかには危ない物もあるし、仮に背負われている事によって親側が油断して葉や枝が肌を傷つけ、あるいは目や鼻に引っかかるかもしれない。

そして子供は避けようにも身体を固定されているから逃れられない危険性がある。


この「日本古来の文化」におんぶによって「視界が開けている」という事や「親と身体を密着」させる事、それぞれメリットがあるかもしれない。

しかし一方で「親を視認できない」故に赤子は親を求めて泣く。わかりきった話。

そしてそのわかりきった話のもとでおんぶするという事はつまり赤子を無視するという事を容認する事になる。

また、基本的におんぶは「おんぶ紐」などで赤子は身体を固定される。

いくら視界に映るものが親の顔ではなく、「広い世界」であっても結局の所、自分の意思では動けない。

「親の活動範囲」しか映らない視界を「広い世界」、そしてその身体を固定され「身動きの取れない自由のない状況」を「親と密着し安心」と物は言いようだ。

とはいえ、コレが日本の文化なら以前から自分の語る「女の性質が土台となり、男の性質が上に向かう」という性質と似ている部分はある。


広い世界が目の前に広がっていたとしても「待て」と強制させる物が日本の教育、そしてその教育は日本の社会にも通じる。

勿論、その慎重さや視野を広く持つことは生きる上で必要かもしれないが現状の日本社会ではそぐわない。

慎重さを「二の足を踏んでいる」と揶揄され、視野を広く持とうとしても「余計な事を考えるな」と言われる。

年寄りは「日本古来の文化を大切にしろ」と説教する。

しかし現実は「世界のスタンダードに合わせろ」と追い込む。

正に「前門の虎、後門の狼」状態。


人間の身で虎にも狼にも勝てはしない。

虎は強いが群れず、狼は単体では虎に勝てないが群れを成す。

ならば虎になるか狼になるか、どちらかにならなければならない、という二択に迫られる。

0か1か、陰か陽か、+か−か。

選択を迫られる、という事は他人主導になっている。

だから選択した後に不満があれやこれやと募ってくる。

失敗したら選ばせた他人から文句を言われ後悔するし、成功すれば選ばせた他人が偉そうにして腑に落ちない。

二択の選択肢の前に内容を吟味する3番目の選択肢がある。

そのためには他人主導か、社会主導か、それとも自分自身で選ぶのかという3択がある。


「おんぶ」が日本の文化ならそれが「日本」で子供を育てる際の弱音と弱音を元にした「親側」にとって有利な教訓だ。

そこに無理やり「安心感」だの「広い視野」という後付けのメリットを付け足し、正当化しても「子供」の感情は置いてけぼりだ。

状況に応じて「おんぶ」を選ぶのは良い。だがそれを正当化し、信仰してしまえば子供を蔑ろにする狂信者だ。

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