弱者男性支援組織は何故生まれないか。
弱者男性、定期的にSNSのトレンドに上がるワードだ。
過去のパターンだと弱者男性の定義に相当する者が犯罪、あるいは問題を起こした際などにニュースになり、トレンド入りになる。
基本的にいつものパターンとはいえ、結局の所「自己責任」になるわけだ。
自分もその弱者男性の定義に入るがこの問題を果たして「自己責任」としてしまっていいものかどうか。
答えは「否」。
勿論、責任は3分割。
どれだけ他人や環境に問題があろうと弱者男性自身にも「自己責任」は確かにあるが、これはそもそも「責任は誰にある?」と犯人探しをする話ではない。す
これは人間、少なくとも日本語として弱者男性を定義している以上は日本人全体の「問題」だ。
何故コレを日本全体の問題として捉えないといけないのか。
世界、あるいは日本でも差別、偏見、レッテルというは多くある。
日本国内では男尊女卑、田舎への偏見、都会への偏見、職業差別、などなど。
世界に目を向ければ宗教や人種などの差別も出てくる。
弱者男性もその差別の対象であるが具体的にその差別の核となる物は何なのか。
見た目?年収?モテるかどうか?それともそれら全て合わせた総合力の無さ?
そんなものは職業差別などの延長でしかない。
弱者男性への投げかけられる言葉の最たるものが「自己責任」。
「自己責任」という言葉に弱者男性は苦しめられる。
何故か。
自分がエッセイで何度も語っている。
毒親やその他の環境。
そうした自分ではどうしようもできない責任が自己責任として重りとなっているから。
と言えば「そんな昔の事を何時までも情けない」と言われさらにループにハマる。
けれどこの「そんな昔の事」、コレが日本人が向き合わなければならない問題だ。
弱者男性の「昔」、つまりは子供時代。
弱者男性の問題は他の差別と異なり、「現在進行系」ではなく、「過去」に起きた問題である。
過去の問題について仮に支援組織が出来たところで解決しようがない。
支援は今現在を支え、未来に向けて援助する行為。
もう起こってしまったことは本人が解消しなければならない。
それが大人だからだ。正直なところ、甚だしい事ではあるが。
だがそれはあくまで本人の責任と本人がやるべき事。
3分割のうちの1/3。
残りの責任である他人、そして社会は弱者男性を通して過去を、「子供」の事を見なければならない。
弱者男性に自己責任と突き放し、情けないと蔑むのは全て子供に向けていると考えるべきなのだ。
弱者男性も他人、子供も他人。
違いは現在の姿か、過去の姿か。
毒親や学校生活、その他の人間関係や家庭の経済力にトラウマ。
子供が大人になるまで法的にも20年近くある。
本来ならちゃんと見ていれば、耳を傾けていれば、触れ合っていれば弱者男性は弱者男性にならずに済んだ場合が多い。
それをせずに弱者男性を追い込んだのが毒親であったり、学校の人間の責任。
そして「男らしくなるための教育」「社会に認められる仕事」などを盾にしてそうした子供が抱えている問題を「無視」する事を正当化してきた社会の責任。
その責任をあくまで弱者男性の自己責任と言うのであれば例えば「少子高齢社会」への対策のために「結婚しろ、子供を産め」などと他人の都合、社会の都合を押し付けるべきではない。
高齢者は責任を取らずに「逃げ切る」事も出来るような話もあるが、弱者男性にしたって高齢者が逃げ切る前に早めに「幕を引く」事も出来る。
そりゃ怖いよ。痛いし、苦しい。
だが追い込まれればそれは顔を出す。
「死ぬ気」になれば「死ぬ」という選択肢は常に隣り合わせだ。
そして弱者男性は子供の頃からその選択肢がチラついている。
その選択肢を意識してしまったら忘れる為に何かに「没頭」して忘れるほかない。
「没頭」すればそれは「情熱」に上乗せされる。
確かに技術や知識の吸収率はただ「情熱」だけの人間よりも早いかもしれない
だがそれは自分の限界を超え、他人への配慮も薄れ、社会からもかけ離れていく。
過ぎたるは及ばざるが如し。
弱者男性の犯罪やトラブルは決して止められない類の物ではなかった。
何故なら弱者男性のそれらの行為は弱音から生まれた行為。
「決死」の教訓だ。
「弱者男性になってしまった」ことを悔いて生まれた教訓であるならそれらを伝えたい相手は子供達だ。
だが未熟な子供には理解できない。
その上、弱者男性には子供との接点も得にくい。
子供の親に伝えるため、その親に知らせるために社会的に問題を起こす必要がある。
計画性のあるものなら「失敗できない」と追い込まれていた。
無計画で行き当たりばったりなら我が身を顧みず「捨て身」にならざるを得なかった。
そしてそれらは全て自分本位。他人を無視している。
何故なら弱者男性こそが子供の頃から無視されていたから。
子供はもっと我儘で良い。
それを伝えるためだけに罪を犯し、場合によっては人を殺し、自分を殺している。
勿論これらは同じように弱者男性という属性にいる自分の考え方だ。
ただの犯罪者、幼稚な人間、どこまでいっても弱者男性をそうとしか見れない人間もいるだろう。
だから「子供」を見て欲しい。言葉を聞いて欲しい。受け止めて欲しい。
それは弱者にはできない。「大人」にしか出来ない。
そして「大人」にはその責任がある。
タイトルの「弱者男性支援組織は何故生まれないか」という答えは支援組織がいる事で問題解決には結びつかないから。
そして同時に「子供の支援組織」という物が出来上がれば現状を否定する事になりえる。
何故なら「子供の支援組織」の最小単位とは「家庭」であり、最大値は「社会」であるから。
選択肢は3つ。
・弱者男性に今まで通り自己責任を叩きつけ、子供に対する大人の責任を無視するか。
・「子供の支援組織」を立ち上げ、現在の社会を否定するか。
・自分達が大人としての責任を受け止め、子供と向き合うか。
変わらないか、強引に他人から変えてもらうか、自分達で変えるか。
弱者男性には社会に対する力はないし、問題そのものは過去のこと。もはやどうでもいい事だ。
どこまでいっても多数派が社会を作る。多数派が変わらなければ社会は変わらない。
多数派が抱える自己責任。多数派が選んで決めてくれ。
たまたま数週間前に上げられた例の「スシロー」の少年の「人生詰んだw」といったような晒し動画が流れてきた。
心無いコメントが多くあった。
勿論、行為は擁護できない。
やった事は倫理的にも現実的な経済にもたらした結果を見ても許されない事は確かだ。
その上で中には「頑張れ」と応援する人もいた。
そういう大人が件の少年の近くにいたなら、あんなアホな事はしなかったんだろうなあ、と思った。