情け、その3
情け、というものを否定する「情けない」。
しかしその情けという物は「普通」の中にいる人間が使う。
前話でも語った通り、「情けない」というのは自分の事。
自分の事を情けないと思うのは自己責任。
一方、他人の事を情けないと思うのは他人に「自分の価値観」を押し付けた自己責任。
他人に対して情けない、つまり「情け」が「ない」と思うのは「情け」の中にある「エネルギー」と「時間」、つまり「現在」と「未来」だけを見ている事になり、過去を見ていない。
その相手と向き合うのであればしっかりと過去を見つめる必要がある。
過去とはつまり現在の行動の理由の一つであり、将来的の目標の土台となった背景を見なければならない。
しっかりと過去、現在、未来を見る。
それが愛を向ける事になる。
しかし見るべき「過去」の代わりに「柔軟性」を見るという事はつまり柔軟性の持つ「受け身」であるか、どのような「道筋」を辿ってきたか、そして「拘り」は何か。
柔軟性とはすなわち商品スペックである。
情けが若さに共通点があるのと同様、未熟さにも通じる。
そして強者側から弱者側の柔軟性を見た場合に何を思うか。
それは「どんな利用価値があるか」というもの。
日本は「流行り」だとか「旬」や「初物」という風な季節感やその時限り、という物に弱い。
何故ならそれは日本人は時間に追われていて余裕がないから。
四季の移り変わりの風土に女の性質優位故の最低限で変化より安定を望み、その上で男性的な強い拘り。
限られた時間、物資、労力の中で最大限を発揮するために強者側は弱者側の柔軟性を見る。
相手の過去、背景ではなく柔軟性という能力を見るのは非常に悪い意味で女的な物の見方でもある。
数週間前になるがデートは男が奢るべき、とかのアレと同じ。
そもそもだが「情けない」という言葉は「年配」から「若者」、あるいは「女」から「男」へ向けられるパターンがほとんどだ。
自分は子供の頃から言われ慣れてる。
子供の頃は求められる事に対して失敗して落胆される事が多いが自分としては「教わった事がない、やった事がない」という気持ちでいっぱいだった。
初めて行う事も成功して当然、という「情け」を与えない大人達からの叱責で今流行りの「自己肯定感」というのはまるで無いに等しい。
そして大人になった自分にそうした言葉を投げかける人間がいるが冷めた心で「お前のために自分が力を出して何の得がある?」という事。
「情けない」という言葉を他人に投げかける人間そのものが「柔軟性」と「エネルギー」と「時間」を無くした「情け」の無い存在。
だから他人に「情け」を求め、そして「情けない」と口にして他人を支配しようとする。
昭和の時代などなら反骨精神を煽る事で支配も出来たが今は令和。
相手の事を無視して自分の都合を優先する「ネグレクト」。
あるいは反抗できない立場を利用した「ハラスメント」。
行っている名前や特性は様々あるがようは「サイコパス」。
「情けない」という言葉で他人を支配する。
そして普通は浅い関係の相手にはそんな言葉は出てこない。
ある程度以上の関係がある者同士の言葉だ。
だから過去を「知っている」つもりなのだ。
親は子供を1人の人間ではなく自分の延長として思っているから「情けない」と言う言葉が出てくる。
年配は自分が成功し生きてきた価値観の世界を絶対唯一の価値観として捉えるから時代も価値観も異なる若者に「情けない」と言う言葉が出てくる。
女は男からチヤホヤされる。言い換えれば与えられてきた。
だから自分の知っている「与える男」と比較して「与えない男」は「情けない」筈であると結論づける。
「それが普通」「それが常識」「それが正しい」というのは「多数派」の声からくる根拠が曖昧な物。
だからと言って勿論少数派が正しいわけでもない。
唯一絶対正しいと言えるのは「そこにそれがある」と言う現実だけ。
問題があってそれを解決しなければならない。
解決には「普通」「常識」といった目に見えないぼんやりとした曖昧な理屈は通用しない。
かと言って0か1で判断をつければ非情になる。
勿論、感情に振り回されてはいけない。
しかし人間として生きる以上、ルールやマナーに情けを感じなければならない。
自然淘汰は非情であり、弱肉強食は薄情。
人間の社会はそうした自然や獣の理から、強者から弱者を守るための教訓。情けの集合体。
自然淘汰、弱肉強食は人間社会の外側にある。
情けを感じる余裕をもたらすのが文化である。