情け、その2
体調が悪い日が続く。
自分の事を花粉症、とは思っていないのだがやっぱり花粉症なのかな。
情けというのが若さと同様の「エネルギー」「時間」「柔軟性」で構築された物と定義した場合、このエッセイで何度も語っている「愛」の定義である2つの共通点と1つの異なる点がある事で「愛」と「愛情」の違いも見えてくる。
まず2つの共通点である「エネルギー(労力)」と「時間」。
愛を語る上でこれらは「資産」であると同時にそれぞれ「時間軸」でもあると語らせて貰った。
労力をかけるというのは「現在進行形」。時間をかけるというのは「未来」。
愛も情けも時間と労力、現在と未来の性質を持つ。
愛する、情けをかけるというのはつまり自分の持つ労力と時間、現在と未来を与える、犠牲にする事が前提。
コレについては特に思うところはない。
問題は異なる要素である「金」と「柔軟性」。
金、というのは基本的には報酬。報酬は基本的に過去の仕事に対してなので「過去」を司る。
一方、柔軟性とは何か、と言えば前話で語らせて貰ったがあれこれと語らせて貰ったが複数のパターンを持つ事。「道筋」を司る物だと個人的に思う。
恋人、結婚相手など対等な相手に対しては「愛する」となるが子供やペット、あるいは機械などの物といった自分から見た場合に弱者となる存在に対しては「愛情」となる。
互いに大人であるならば愛を向けるまでの過程には互いに歩いてきた道、「過去」がある。
だから過去を曝け出す必要があり、それを曝け出す事を愛とする。
一方で「愛情」となると相対する相手は弱者である。
子供にしてもペットにしても機械にしても常に強者である自分の都合によって振り回される存在だ。
いくら弱者が暴れ回っても強引に終わらせる力がある。
数年前に流行ったアニメの台詞で「生殺与奪を他人に握らせるな」という物があったがそれはあくまでも「大人」と「大人」という対等な立場、対等な力関係に基づく。
いくら子供が暴れても大人に逆らえない。
子供には稼ぐ力もないし、生活に必要な力もない。
何故ならそこには過去、つまり経験がない。
だから受動的にならざるを得ない。
勿論、人権のないペット、物言わぬ機械も同様だ。
だから大人と大人、対等な者同士の間に発生する「過去」を曝け出すだけでは足りない。
過去、経験を基に辿ってきた道筋を与える。
それはルール、マナー、文化など「安全」で「効率的」で「楽」に済ませる事が出来るために考えられてきた道筋。
そうした枠を「普通」と呼ぶ。
その普通を構成させるものとして「教訓」がある。
「情けをかける」というのはつまり教訓を教える事が一端でもある。
また「情けをかける」という事はつまり「教訓」について「労力」と「時間」をかけて共有するという事。
共有した結果何が生まれるかというと「価値観」が生まれる。
教訓によって「安全性」と「効率」、そして「楽しい」という感覚によって作られた「普通」という枠。
1人ならば「自己満足」。
しかしそれを複数で共有する事で自己満足であった物に対して価値が認められ、指針が生まれる。「常識」という価値観である。
情けない、とは常識がない、という事。
常識がないということはそこに「普通」という価値を見出せない事。
何故なら「教訓」「時間」「労力」で構成された「情け」を共有されなかったから。
仮に自分1人で「学習」したところでそこには過去のデータから読み取った「過去」の普通、常識しかない。
結局それが正しいかどうかは挑戦しなければ分からない。
挑戦してその結果を共有して初めて「普通」を知り、「常識」を知る事ができる。
しかし例え挑戦してもそこに共有してくれる相手が居なければやはり「普通」が出来ても、「常識」を知ったとしても価値を見出せない。
「安全」である事は理解した、「効率的」である事は理解した。
しかし「楽しい」という感覚が欠如する。
だから手段は手にしても価値観が完成しない。
情けないのは意欲がでないから。
意欲が出ないのは価値を見出せないから。
価値を見出せないのは情けをかけてもらえなかったから。
「情けない」のは自分自身。
「普通」と「自分」を比較して価値を見出せないから情けがない。
情けがない、とはいえそれを克服するには時間と労力を共有し、それを受け止める柔軟性を持った相手が必要だ。
だからそこは自己責任。
自分が自分を「情けない」と思ったらそれは過去のデータは蓄積しているが現在に見合っていない。受け止めて貰える相手が必要。
そしてその場合は自分もその相手を受けとめる柔軟性が必要。積極的な受け身、様々な道筋、一つの道に固執しない事。それだけの余裕を自分で獲得する必要がある。
と同時にそれだけ余裕がないのが今までの自分だと自覚しなければならない。
逆に他人に対して「情けない」というのもまた自己責任。
他人の背景を考えれば何故そういう状況なのかを察する事ができる。
情けをかけるどころか背景を見ようともせず、「自分」を「普通」と同化させ、「普通」が最低限の基準、そして最大限の基準となる。
そうなるとその普通の基準からはみ出したそうでない物を応援出来ない。
情けないと判断したならやる事はマウントを取る事ではなく「応援」する事。
他人に向かって傲慢にも「情けない奴」と口にすればするほど自分自身の情けの無さが露呈する。
応援出来ないならせめて否定するような言葉を口にせず、自分は「情けをかけられていた」と謙虚に思うべきだとは思う。