自慢と我慢
自慢と我慢、どちらもこのエッセイでは割と出てくるワードだ。
意味は全然違うのに字面で見るとほぼ同じ。
「自ら」か「我」か。
そうして考えた結果、自慢も我慢も同じ事、と言い切るのは極端か。
違いがあるのだから近いものなのじゃないか、と思った。
そもそも何故そんな事を考えたのか、と言えば単に漢字の間違いからである。
エッセイの下書き途中に我慢を「我満」と変換した。
字そのものに違和感を覚えたものの、意味としては特におかしくないと感じたのである。
「我を満たす」
アレが欲しい、コレを食べたい、ソレをやりたい。
まともな精神状態の人間ならそうした欲求は当たり前のように持つ欲だ。
だけど色々な理由で諦めざるを得ない。
その時、欲求というのはつまり拘り、100点を目指す行為と同様であり、その欲求を我慢するとは80点で妥協するわけではなく、60点という最低限で自分を満足させる行為。
自分を満足させる、つまり我を満たす。
「我満」という事。
だけど100点が欲しいのに60点で我慢させるなんて中々難しい。
そのためには自分の気持ちを誤魔化す必要がある。
「本当はステーキが食べたいけど金がないから我慢しよう。」
そんなふうに自分を誤魔化して満足させてその場の欲求を鎮める。
この場合、80点である妥協点を考えるならステーキは買えないけど安いハンバーグを買うとか、ステーキは買えないけど寿司なら買える、とか色々な代用品となる。
けどその代用品すら我慢してしまうという事はそもそもの欲求を曖昧にしてしまう事になる。
「何か食べたいと思った気がしたけど忘れた」
そうやって我慢を繰り返していけば拘りを持たなくなる。
次第に欲求すら湧かなくなる。
今回の場合食べ物だが次第に腹に入ればなんでもいい、と思うようになる。
なぜならば欲求を持っても我慢しなければならないのは学んでいる。何度も繰り返す事で欲を持たなければ楽だから。
「最低限で構わない」と我を満たす。
そう言い聞かせる事で本来湧いてきた欲求を曖昧にしていく。
その曖昧にした欲求は消えるわけではなくフワフワとした言葉にならない不明瞭な物となって自分の中に残る。
その欲求を別の事で解消する、欲求を別の物にして消化する事。
それが気持ちの昂りを養分に変え、花を咲かせる。
つまりは昇華である。
とはいえそのためにはその欲求を別のエネルギーに変化させるための訓練が必要となる。
勿論変化させる先というのはそれは人それぞれだ。
運動が得意な人は運動に、勉強が得意なら勉強に。
だが都合よくそんな社会的に価値がある事、肯定されている事と結びつくわけではない。
それはそれで良い。あくまで我慢した欲求の解消だから。
欲求を解消して自分で自分に報酬を与える。
だがそれすらも否定され、やり方を他人から指定されれば怒りを覚える。
我慢して溜め込んだ欲求のエネルギーを絵を書いて発散したい、という人間に他人が身体を動かしてスポーツしろ、というのは新たな我慢を強いる行為とエネルギーを溜め込む行為だ。
何時までも満たされない。
最初に食べ物の我慢をして、その我慢を解消するために行おうとした行為すら我慢させられ、その他に新たな我慢が積み重なっていく。
本来であればその都度100%は無理でも妥協して不満を減らし、我慢する事になっても解消させていかなければならなかった。
成長のために使われる筈のエネルギーは自分の欲求を押さえつけるための蓋として使われ続ける。
満足して来たわけじゃない
蓋をして満足した風に誤魔化してきた。
蓋を開ければそこに入っている筈の高められた自己ではなく、怒りと悲しみ、憎悪のエネルギーがあるだけ。
蓋を開ける前に容れ物が壊れれば自暴自棄になる。
現界だと蓋を開ければそこにある怒りは他者に向かう。
何も知らない人間はその残虐性や容赦の無さなどから「サイコパス」と言う事もあるが実際はサイコパスに囲まれた環境で我慢を強いられおかしくなっただけ。
本物のサイコパスなら小さい頃からサイコパスとしての解消方を身に着け成功者として社会に紛れる。
本物なら普通と違う事に恐怖や焦りなど感じない。恐れるのは自分が虐げられて殺される事だけ。
自分のような人間は普通に成りたくて失敗や挫折を重ねる。
本物のサイコパスは普通に成るつもりなど考えず普通を装う事を身に着ける。
サイコパスには化けの皮を剥がせば化け物がいるかも知れないが、自分のような人間は皮を剝がせばショックでのたうち回る。
のたうち回る、暴れた際に巻き込まれるのは近くにいる人間、我慢を強いてきた側の人間の場合が多い。
我慢で溜め込まれた怒りのエネルギー、一つ一つ解消していくにはもはや何が何の我慢だったのかすら分からない。
我慢を神聖視する日本だからこそ、我慢の扱いには慎重にならなければならない。