100点を目指す者、その4
筋トレの表現で誤解を生む物があった、とはいえ正直な所それがどうした、という感じではある。
それを言語化するのに自分の語彙力や理解度では難しいと知っていながら表現するのも自分がエッセイで「表現してみたい」という拘り故であり、そしてそれを後になって間違っていた、と気づいたのも自分が拘った故。
例えばバトル漫画などではたまに技の解説などが入るわけだが逐一それをしっかり見る人はどのくらいいるのか。
バトル物の技くらいならば格闘技や剣道など、何か現実の経験に基づいて共感したり出来るものがあるからそれをしっかり見る人もいるかもしれない。
しかし個人対個人の武術的な技ではなく集団戦における戦術としての技では?あるいはさらに大きな局面を視野にいれた戦略では?
漫画を読み込む、としてもそれはストーリーに対してでありそういった細かい部分をしっかりと読み込み理解するには当然前提の知識や経験がなければ理解するのは難しく、その前提条件が備わっていない場合、半ば空目状態で流し読みしてるのではなかろうか。
結論から言えばそれで良い。
いちいち気にかけてたらキリがないし、それが漫画などのフィクションであれば作者の考え次第でどうとでも変化するし、現実の問題であっても人間一人ではどうにもならないから専門家、プロフェッショナルがいるのである。
拘りは確かにエネルギーを生む。
拘ればクオリティは上がる。
だが自分のエッセイの投稿スピードのように話数が続き、後になればなるほど鈍化していく。
仕事の忙しさだとか身体の不調なども理由としてはあるわけだが一つのテーマに絞る事で掘り下げる事に現界があるからだ。
実際、「筋トレを日本人がするべき理由」として当初考えていたのは筋トレがスタートではあるが主に「骨の使い方」である。
最後のあたりに投稿した「書いた理由」となった矯正バンドの話だとか、「呼吸の重要性」などはテーマとして本来書きたかったものから外れた物で「付加価値」 のような物である。
しかもその付加価値は本来書きたかった物と比べると文字数は少ない上に投稿は鈍化。
それでも書きたかった。
自分の拘り「筋トレを勧めたい」という欲望が拘り故に無駄に細かくした表現を間違えてしまった後悔のせいもあって「骨の使い方」だけでは収まらなかった。
付加価値、といえば今や衰退してしまったガラケーも同様だ。
今もガラケーを売っているのかどうかは知らないがガラケーは「付加価値」をつけすぎた。
あくまで「携帯電話」 という電話を持ち運べるという物からメール、カメラ、ゲーム、音楽、ネット、あとワンセグテレビなど詰め込み過ぎた。
勿論、技術的にも社会的にもスタートはガラケーとスマホではかなり差があるわけではあるがスマホがガラケーと根本的に違うのはガラケー時代には「付加価値」として携帯電話に最初から搭載された機能。
現代のスマホではそれらはスマホの機能としてではなく、ほぼ全てアプリとして動く。
スマホはあくまでアプリを動かすための土台であり、スマホの機能自体はあくまでシンプル。
拡張性、カスタマイズ性、言い方はいくつかあるが用は使用する側に自由がないのがガラケー、自由があるのがスマホ。
スマホは「通話」や「ネット」、最低限の機能を備えつつもその最低限の上で多種多様な動作を行う「アプリ」を動かす事が出来る。
かといって最初からそのアプリが全て搭載されているわけではなく、使用者の意思でアプリのダウンロード、あるいはアプリの削除とカスタマイズできる。
つまりは60点以上、80点に近い存在と言える。
一方ガラケーについては携帯電話に最低求められた「通話」という機能、そして「付加価値」として搭載された物は全て最初から搭載されている。
スマホでいうなら特定のアプリが最初からいくつかダウンロード済みであるがそれ以上の拡張は出来ない。
購入した時点でそれが全て。その携帯電話の100点を満たしている。
勿論、ガラケーの時代にもゲームや音楽を購入、ダウンロードはあったが機種などによって細かく対応、非対応が分かれていた。
ゲームデータ、音楽データはダウンロードできたがそれを動かすための機能自体はやはり購入時に確定されている。
「付加価値」と言いつつ、それは与えられた使用する側からすればの話。
求めた物に「付加」されたオマケのような物かもしれない。
しかしそれを作った側からすればその付加されたものも含めて、むしろ付加価値の部分こそがオリジナリティを表現するための価値の全てだ。
このエッセイにしても同じ事。
100点を目指さない者からすればその付加価値、オリジナリティは「あってもなくてもどっちでもいい」、あるいは場合によっては「あるだけ無駄」かもしれない。
拘りが強い、ということはそうした拘りがない者の意見を否定する方向に向かいがちだ。
だから100点を目指すのは信仰である。
他人からは理解されなくて当然。
その意識は自分も戒めとして常に頭に置いておく必要があ1る。
100点を目指す事、つまり信仰の正当性を主張したいのであれば他人を応援、助ける事、守る事で証明される。
応援、手助け、守る、全て他人に力が向けられる。
その時点で100点から目を背ける事になるが目を背けた程度でゴールに至る事ができない余裕がない信仰など綱渡りのギャンブルと同じ。
少し目を背けてももう一度100点を目指してしまう。
嫌う理由はあっても好きになる理由など全て後付け。
100点を目指す事に理由はなく、止める事にも誰も文句は言わない。
100点を目指すなら安心して足を止め、振り返れ。周りを見渡す余裕が無ければ最低限の60点と同じだから。