100点を目指す者、その3
日本人は「◯◯道」と付けたがる。
格闘技なども単に「技術」としての「武術」、
その「技術を通して学ぶ哲学」としての「武道」と意味が分かれている。
勿論、格闘技のみ成らず、スポーツ、学問、趣味、ほぼ全てのジャンルにおいて「道」がある。
コレがまた面倒くさい。
なぜならそれこそが80点以上、100点を目指す事と同義であるから。
勿論、それを自分が選んで進む道なら良いが残念ながらそうはいかない。
1人は寂しい、だから他人を巻き込む。
そして他人にも高いレベルを求める。
100点の人間、今風に言えばガチ勢からすれば60点〜80点のカジュアルなレベルで満足しているのは物足りない。
最初は主体性を重んじて応援、サポートに回る余裕があるかもしれないが次第に指示を出し始め、それがやがて命令になり、さらには支配しようとする。
何故か、といえばそれは自分が自分の100点のために使う筈の愛、つまりは金、時間、労力をそのカジュアル勢へ費やしたから。
自分のエネルギーを費やしたのだから自分の思う通りに動いてほしい。
応援の話の時に語ったように祈りである。
だがその祈りは神頼み、願掛けの域を出ない。
何故ならあくまでもそこには100点を目指す自分の都合しかないからだ。
前話で話題にした被災者が後世に伝えたい思いをあえてネガティブに語る。
それは「自分達の思い」という名の彼等の被害者意識である。
実際、被害者である事は確かだがそれは絶対に100%は伝わらない。
何故なら被災していないから、被災していても程度が異なるから、あるいはそこに拘りが無かったから。
伝えるべきは最優先として「起こった事実」、そしてその起こった事に対して行った「対処法」、そこから得た「教訓」。
だがそうした物が最優先で伝わり、残った物が「被害者意識」である。
辛いのは自分も分かる、だがそれは社会には伝わらない。
だから焦り、怒り、過激になり、そして疲弊し、ヤケになる。
自分や引きこもりや無敵の人、社会で底辺と馬鹿にされる人間と何ら変わらない。
共通点は「気持ち」を伝えたい、理解してほしいという事。
ただ、自分達のような社会の底辺と被災者達との違いは多数派の意識があるかどうか。
恐らく、頭では「少数派」である事は分かっているのだろうが「少数派であると言うのはどういう事であるのか」その意味を理解していない。
何故なら、その土地に「普通」に暮らしてきて「普通」に働いて、「普通」に暮らしていた「普通」の人間が殆どだから。
生まれてこの方「多数派」の意識しかない。「少数派」の辛さを理解していない。
毒親にしてもイジメにしても、自分の素質、才能もどうやっても抗いようのない「天災」だ。
あくまで自分が努力出来るのはその天災への「防災」と「対処」だけ。
そうした災い、「宿命」とかいう言い方もされたりするがその宿命も自然災害も結局は「普通のつもり」、「多数派のつもり」から間違いを選択していく。
100点を目指す者からすればその分野において「上を目指す」事は当たり前かもしれないが夢や目標、目的が異なる大多数の人間からするとそれはあまりにも窮屈だ。
応援は相手の気持ちを受け止め、「期待」を返す。
しかし気持ちを押し付ける「期待」は他人からすると「枷」でしかない。
災害にしろ、イジメや毒親にしても「事実」を語り、「対処法」や「教訓」を伝えた時点で、後はもう他人には意味がない。
そこに残った「自分達の思い」という被害者意識は自分達で乗り越える課題であり、被害を受けた当事者以外の他人には責任は一切なく、背負う必要もない。
あとはもう「自分達の思い」を伝えるのは当事者の義務ではなく、「自分達の弱音」でしかない。
認識すべきは自分達の弱さ。
災害などの怖さを知らない人間の無知は確かに問題ではあるがそれに託けて「弱音を吐くための受け皿」にしようとするから聞いてもらえない。
エッセイという体裁でその弱音を吐き出してる自分も人の事をとやかく言える立場ではないのだが、格好つけて語っても
聞いてくれない、理解してくれない。
だって他人は他人、自分じゃない。
異なる経験、価値観を持つ他人。
それを理解していれば「弱音を吐き出す」を「思いを伝える」なんて言い換えない。カッコ良すぎる。
だがそれすらも拘りの中にあり、「美意識」や「矜持」、そうした物になる。




