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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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100点を目指す者、その2

昨日のラジオで午後3時前に黙祷する時間があり、そういえば3月11日だったな、と思い出した。

住んでる所としては影響らしい影響は停電だとかガソリン入れられないとかその程度しかなかったけど。


あの地震で今も苦しんでいる人もいるし、忘れてはいけない事だとは思う。

だがその一方で、という話である。


地震が発生して12年。

かなりの年数が経ったがそれを忘れられない、忘れちゃ行けない、と語る被災者達だが自分の過去の情けない人生と比較して「卑怯者」とさえ思う。

何度か語っている自分の情けない未熟で貧相な人生だが今の時代、「8050問題」だとか言われている通り、下を見れば下がいる。

被災者達は手を差し伸べられて当然で、精神疾患だとか、トラウマだとかは自己責任?

「笑わせんな。」

…と欲望というか幼稚な怒りに任せてぶち撒けたそんな話になるわけだが、被災者の中でも立ち直れない者と立ち直る者の差、そして田舎の問題はそこにあると今日の黙祷の時間で感じた。


立ち直れない者、というがコレは地震のショックで今もトラウマだとか身体に障害だとか、それまで以前のように暮らすのが困難である人を除く。

身体も無事、精神的、あるいは金銭などのサポートなども受け、余裕もあるのに、だけど立ち直れない者。

傍から見れば「甘え」の状態の者だ。


そうした者を責めるつもりはない。そこに至る原因は違えど

同じ様な状態を経験しているからだ。

だがこうした立ち直れない被災者は自分だとか引きこもり状態の人間のような者ばかりでなく、それまで周りの人間と同じ様に普通に働き、普通に社会貢献をしてきた普通の人間でさえそうなっている。

未経験への恐怖?確かにそうした物もあるかもしれないがもっと単純で自分の世界の喪失だ。


世界の崩壊、仰々しく書いたが例えば外出して部屋に帰って来たら空き巣に荒らされていた場合、ショックを受けると思う。

何故ショックを受けるのか。

何かを盗まれたから?違う。それなら急いで警察にでも被害届を出すなりすればいい。

ゲームなどでも同じなのだが例えばホラーアクションゲーム。

怖いのは当然だがホラーゲームをプレイすると決めた以上、ある程度は心の中で「備え」をする。

心に備えをする事で急に恐怖となる物が現れても冷静に混乱せず、あるいは混乱を最小限に抑え、立ち向かう事も可能だ。

だがそうしたゲームには例えばセーブポイントのような絶対に安全が確保されたエリアが存在したりする。

その「セーフティルーム」的な場所、安心仕切った場所にその恐怖が持ち込まれた時、備えをしていたときなら何の問題もなく対処できるような小さな恐怖でさえ混乱してしまう。

安心する事で恐怖に対しての盾が消失してしまう。


金銭的、あるいは健康などそうした余裕があっても立ち上がる事が出来ないのは自分が精神を落ち着かせる場所、安心できる筈だった場所が壊されたから。

恐怖へのショックそのものではなく、恐怖へ対する盾、安心できる環境を構築出来ないことが問題である。


何故構築出来ないのか、といえば拘りの高さ故だ。

以前と同じ、あるいはそれ以上を求めてしまう。

だがそれは無理な話。

仮にいくら他人がサポートしてくれて安全な家を建てたとしてもそこには安心出来ない。

その安心とは金だけでは作れない。時間をかけてようやく完成する。

立ち上がれないように見えるかもしれないが今彼らがしているのは「恐怖への盾を作る」という作業をしているのである。


拘りの強さは「未来への期待」への強さであり活力でもある。

しかしそれが壊されれば一転して「過去への執着」となり、「現状を受け止められない」ようになる。

立ち上がった人間は過去の拘りを捨てた。

住み慣れた環境、仕事、そうした物である。

しかしそれは「未来への期待」を捨てたわけではなく、拘りが環境や仕事ではなかったからだ。

結局のところ環境も仕事も自分の世界を構築する上で重要ではあるが基本的に変化しない。

自分から変化へ向けて動く事はあっても環境そのもの、仕事内容そのものが勝手に変化する事などそうそうないし、それを求めている。

つまりは「拘る」という事は情熱と行動力が組み込まれているが、逆に「拘りを向ける対象」には自らは動かない不変性、しかし拘りの情熱と行動によって変化する柔軟性を求める。


拘りとは何か、結論としては思いや気持ち、精神、魂。色々な言い方があるがそうした目には見えない。

そうした不安定なもの故に多数派の思いは無条件で社会で許されるという事。

だからこそ月日が経つにつれて時代の変化などでその多数派の思いは数が減り、少数派になっていけば自分のような人間や引きこもり、精神的に弱さや病を抱える者と同様に自己責任を投げつけられるようになる。

自分を含めたそうした人間の共通点は自分、あるいは自分の属するコミュニティの「普通」と多数派であり社会の「普通」の差に開きが出ている事だ。


3月11日という事で被災者を絡めた拘りの強さを抱える人故の共通点を語ったものの、自分達は「少数派」であると言う思いがある。

とはいえ「普通」という「多数派」になりたいという気持ちもある。

その現実と理想の差に苦しむ。

だから助けられていつか解消されたら「感謝」できるのだが、助けられても苦しむ者がいる。

それは「多数派」のつもりの人間だ。

自分は「普通」である、「多数派」である。

現実と理想の差を自覚できない、だから社会からの扱いの差に怒りを向ける。

そして自らの怒りによって苦しむ。


その苦しみを、少数派を自覚する者達は相談出来ない、相談したとしても無視されてきた経験がある。だから苦しみ溜め込みさらに苦しむ。

一方で多数派であるつもりの人間はいくら相談しても理解されない事に怒りを覚える。

だからさらに感情、思いをぶつけ、過激になっていき、それが激しくなればなるほど自分の熱量と社会の温度差にさらに怒りがつのる。


苦しみと怒り、両方ネガティブな物ではあるが苦しみは問題そのものを指すのに対して怒りはあくまで自分の感情である。

問題がそこにある限り苦しむが問題が解消されれば苦しみから解放される。

だが怒りはそれでは解消されない。

一言でいえば「腑に落ちない」。

問題の解消と感情の解消が別だから怒りの炎が燃え続ける。

それこそが誰にも責任を被せる事が出来ない自分で解消すべき自己責任だが「全部自己責任」という曖昧な社会のため、

その責任は全て自分で成し遂げるか、全て他人の責任にするか両極端。

拘りの強さが欲を生む、夢を作る。

同時に毒を作り、障害を作るのもまた拘りの強さとなる。


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