感謝その2
感謝は経験無しには感じ取れないかもしれないがわざわざ大人にならずとも感謝する事は理解できる。
感じ取れないのは
「助けてもらった」→「???」→「お礼を伝える」
この中間の部分を教えないから理解するのに時間がかかる。
何故教えないのか、といえば面倒だからだ。
何故面倒なのか、といえば正解がないから。
時代、環境、人間関係、年齢、仮に家族であってもバラバラでその感謝の場面の状況も異なる。
「正解」を与えようとすれば時間も労力もかかるし、ややこしくなる。だから経験させるのが楽。
だからそこで「教訓」を伝える事のできる家庭と「正解」を求める家庭とで差が生まれる。賢者と勝者の差である。
御託はここまでにしておいて個人的な感謝についてを語らせて貰えばシンプルで前話で「毒親は子供を自分の手足のように考えて人格を認めない、だから子供に感謝出来ない」という事から逆算して感謝というのは「区切り」であると考える。
感謝とは自分と他人は別の人格である、と分ける所から始まる。
「助けて貰って当然」という感覚では感謝は生まれない。
そしてその際にお礼の言葉の意味は助けられて余裕を得た証拠。
問題を解消して成長した区切り。
ありがとうとは有難い。「今」が有る事が困難だったことに対する他人の助けの再確認。
お礼を言う事で「問題を解消した」という結果と「助けて貰った」という事実、そして「整理をつける余裕が生まれた」という確認。
そうした物をお礼の言葉を通じて他人を通して自分に言い聞かせる。
応援とは反対でその問題に対して自分1人では力が及ばなかった。
だが助けて貰ったおかげで解消する事も出来たし、お礼を言う事ができた。
今は他人に「感謝」しなければならないまだまだ弱者である。
だが「応援」に対して「感謝」という報酬を返せる「実力」を得た。
「だから助けて貰ったら感謝しなさい」と言う教訓に至る。
勿論、それを子供に伝えようとしたらその年齢に合わせた言葉となる。
最初はまさに結論だけで「とりあえず」それで良いかもしれない。
しかし子供が成長し何故?と聞いてきた時に同じ答えでは行けない。かと言って小難しい言葉を並び立てて混乱させてもいけない。
子供と親である自分は別の人格、まずそこから始める。
自分の感謝についての教訓はそんな所だが別にそれが世界共通の正解とも思っちゃいない。
「自分はそう考えている」と伝えるだけ。
それに納得したらそれはそれでいいし、納得いかないなら考えてみたら良い。
ただ「そう考えている人間がいる」という事と「そういう考えがある」というのは考える材料にはなる。
「助けて貰ったら感謝する」そんな最低限の結論だけを感謝の全てにして押し付ければドンドン作業的な物、SNSなどでいう所のスタンプなどと変わらない、感謝というものが効率化されて軽くなる。
人間の基準がドンドンあがり、若さを求め、老いから逃げ、死から逃げ。
命の区切り、人生の区切りどこでつけるつもりか。感謝はどこで誰に向かうのか。
それはまぁ…各々自分で考えるべきだろうが若いまま死ぬのは悲しい。
そして若いつもりのまま死のうとするのは迷惑なんだよな。