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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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100点を目指す者。

80点の話から応援やら60点を語り、さらには筋トレの話をグダグダ語り、ようやく100点の話。

この100点すら本来80点の話の一部。


でもこの一連の流れ、アッチコッチに関心が寄せられてしまい、それらを解消しなければ次に進めない状態、下手に文章で説明するよりまさしく拘りの100点を目指す者として分かり易い表現だと思う。

ちなみにコレでもエッセイとして投稿する分には絞ったつもりでメモというかネタとしては他にもアレやソレやと下書きに書いている。

流石に多少なりとも人に見られていると思うからどうにか話をテーマ毎に纏めようとしたがそれでも気になるものは仕方ない。

それを区切りをつけるには自分が納得する、満足する方法を身につける他ない。


さて直前まで筋トレを日本人がするべき理由を長々と書いてきて途中、誤解を招くような表現があった事に気づき謝罪の話をわざわざ書いた。

ただ気づいた時に思ったのは「訂正するのが面倒くさい」という事だった。

そもそもとして少なくても1000字、多ければ3000字のエッセイを書いて投稿して100話越えるような投稿をもう4ヶ月以上続けているわけだ。

正直たった数話訂正するより労力としてはそっちの方が面倒なわけで何を今更、というわけだが何故こうも訂正するのが面倒くさいのか。

それは先述通り、アッチコッチに関心が向かい、新しい話を書きたい、新しい拘りを解消したいからだ。

そしてその解消のために拘りへ向ける力、愛を過去の物に使いたくない。


実際のところ、「訂正」ではなく、新しいエッセイのネタとして、筋トレの話とは別に身体の事を語ろうと間違いに対して「リベンジ」をしようと下書きを書いている。

身体の構造について書き直す事自体は自分は別に面倒臭がっていない。

自分の中で終わった物、過去の物に対して手をつけるのが嫌なのだ。


ただ気づいた時に思った面倒臭いという感情とこの新しい拘りに力を注ぎたいという気持ち、まさしく自身の拘りへ100点を目指す人間の思考パターンだと気づいた。

そこで自分が出会った人間でそうした強い拘りを持った人間がしてきた事を思い出して2択を迫った。

「何も反応がなければニュアンスで通じたという事で放置する」

「意見があれば消します」

コレは言葉こそ攻撃的ではないにしろ脅迫なのだ。

相手、つまり読者に0か1の選択肢を突きつけ、その二択を選ばせる事で自分は責任を逃れ、責任を読者に被らせる。

わざわざエッセイとして謝罪文を書く筆のなどなく、黙って編集して活動報告や新たに書いたエッセイの後書き、前書きにでも訂正したと書いておけば全部収まる話。

そもそも気づかないフリをしても良かった。

しかし単にこの0か1かの選択肢を与えたフリをしつつ、責任をなすりつけるという事。

選択肢があっても自由ではない。

選択肢を選んだ事で自己責任で言いくるめる。

サイコパス的な人の追い詰め方だ。


本来そこにある全ての選択肢を開示せず、自分に都合の良い選択肢だけを用意してそこから選ばせる。

自分がやったのはあくまで趣味の範疇、無料で公開しているエッセイの間違いの訂正するのが面倒臭い、というものから着想した「脅迫の真似事」ではあるがコレが仕事だとか、あるいは教育などの場合。

それは他人に我慢させる事となり、しかもその我慢のさせた責任すらも我慢を自ら選ばせる事で「自己責任」という事で誤魔化す。


常に最低限を維持する60点の人間はいるが100点の人間はいない。

何故なら全てのことが常に発展し続ける社会で常にその上限が上がり続けているから。

だからあくまで「100点を目指す者」なのだ。

仮に「現時点」での拘りの100点に到達したとしても明日か、明後日か、いずれにしろ未来の先にはまた基準が上がり今の100点は90点か80点か、あるいは60点に下がる。


社会は今よりも高い生活水準を目指して発展するためその先駆者となる「成功した100点を目指す者」を偉人として称賛する。

しかし、その身近にいる人間は必ずしも幸福と呼べるのか、といえばそうとは思えない生活環境にいた者達がいる。

成功したからそれまでの我慢を帳消しにできるだけの裕福さや尊敬の眼差しを向けられるわけだが必ずしも先駆者として成功するわけではない。

成功のための忍耐、それは確かなのだが身近にいる人間は常に振り回される。

他人の夢、他人の拘りのために自分が自分の拘りのために向ける筈の愛を差し出す。

実際は「差し出す」かあるいは「決別」の二択しかない。

そこにある筈の「話し合う」だとか「立ち止まって考える」だとか色んな選択肢があるわけだが力関係がその二択を追い込む。


他人に我慢させて100点を目指す者がいるように自分の愛を他人に差し出すことで未来の幸福を得ようとするから自分が無くなる。100点の人間の下には60点の人間がいる。

なればこそ、さらに100点を目指す者は100点を追い求め、60点の人間は耐え忍ぶ事を正当化して格差を広げる。

次第にそこには社会の常識とは外れていく。

毒親、イジメ、ブラック企業、田舎の人材流出…等。


それでもなお100点を求めるなら求道者となり、孤独すら愛さなければならない。


一応、今回の話のネタになったので筋トレの話での表現の誤解については謝罪の話も含めて今後訂正もしないし、消す事もしない、という事で。

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