筋トレを日本人がするべきである、という「理由」その5
人間の身体は円運動しかできない。
例えば「腕を前に出す」というのも腕を降ろした状態から円の軌道で上に上げる。
そこからさらに押し込む場合でも身体を半身に円の軌道で捻る。
前後、上下だけでなく可動域の広い股関節や肩関節であってもそれは変わらない。
一方、筋肉はさらにシンプルで直接的な動きしかできない。
加えていえば筋肉に命令できるのは「収縮」だけ。
筋肉が伸びるのは収縮した筋肉の反対側の筋肉が伸ばされるだけ。
伸びろ、と命令して伸びているわけではない。
勿論、腕一つとっても様々な筋肉が作用しあって動かしているわけである。
この筋肉の収縮と身体の円運動で様々な動きを可能としているわけである。
円と線、それらを混ぜれば「捻じれ」となる。
例えばパンチ、正拳、呼び方は何でも良いが前に拳を突き出すとき、多分多くの人は手の甲が上に来るように打ち出すと思う。
ボクシングだとか空手の一般的なイメージの拳の突き出すイメージ。
この捻じれが螺旋となって貫通力を生み威力をアップさせるらしい。
まぁ格闘技素人だからその辺の感覚はよくわからんが。
ただスクワットでもこの捻じれの効果が発揮される。
「ニーイン」、膝が内側へ入る、内股のようになるものだ。
ネット等でスクワットの基本的な解説では膝の向きと爪先の向きを揃えよう、と説明してある。
理由は向きがバラバラだと危ないからだ。
特に説明するまでもなく重さがそれぞれバラバラの方向に力がかかり、軟骨が変形したり、骨折したり。
しかしこの「ニーイン」は危険性がありながらパワー競技選手が「技術」として使っている。
勿論、リスキーではあるが1キロでも重い物を持ち上げるためには必要な技術であるようでその効果は自分も高重量を扱うときに無意識にニーインしていたりする。
そのニーインの効果は複数の筋肉を動員する事でそれぞれの筋肉に「重さを逃がす」という事。
基本的に筋トレでは筋肉の「収縮」を目的としている。
そのためボディメイク的に「筋肉をつける」という意味では捻じれを発生させず、その狙った筋肉に負荷を全て与えたい。
しかしながら重い物を持ち上げるパワー競技、あるいは普通のスポーツや格闘技でも力を一点に集中させたい。
力を一点に集中、という事はつまり逆に考えれば身体中の筋肉の力を可能な限り動員させたいということ。
捻る事で外からの衝撃、重さに対して複数の筋肉が動員される事になる。
とはいえここまで捻じれを下げるように語っておいてなんだが捻るってのは日常的に無意識に行う動作である。
そして日常ではスポーツや格闘技などの強烈な刺激はまずない。
にも関わらず人間は日常的に身体を捻って身体にダメージを受ける。
ニーインでも説明したように「楽」だからだ。
そして筋トレは基本的には両手両足、それぞれの力が均等でなければならない。
トレーニングマシンであれば軌道が決まっているからこそ、利き手、利き足の力に頼っていてはスムーズに動かない。
バーベルでは両手で掴んで両手で高さを均等に上げなければ重心が傾くため、利き手だけに力を入れれば入れるほど逆側への重心が偏り難しくなる。
ダンベルではそれぞれ片手に持ち、別々に上げるとはいえ左右同じ重量でやるのが普通。
筋トレは左右の筋力バランス、あるいは重心のバランスも均等にしないと困難である。
また筋トレは可動範囲と言うものが重要視される。
より可動範囲が広ければそれだけ筋肉が伸ばされ、そして収縮も強くなる。
勿論、人それぞれの身体であるために自分のコントロールできる範囲、となるが。
スクワットでは自分で知っている範囲では
例に出した和式トイレのようにもも裏とふくらはぎがくっつくほど深くしゃがむのをフルボトム。
それより浅いもののしゃがんだ時の骨盤の高さが膝の高さより低いフル。
骨盤と膝の高さが同じパラレル。
そのパラレルより浅いハーフ、そして最も浅いクウォーター。
基本的に深ければ深いほど効果が高い、と言われる。
日常生活における絶対正義の「最短最速」で「ローコストハイリターン」とは真逆、重量を上げるという意味では「最長最遅」で「ハイコストローリターン」という行為をこなす事で筋トレにおける「最大限のコスパ」を実現する。
結局、「急がば回れ」なんて諺にまとまる話なのかもしれないがそれは筋トレに限らずの事。
ただ現代社会の仕事や学業で過程や無駄を楽しむ余裕や失敗を許されるのか、正直自分には分からない。
分からないから現状努力出来ないわけだが。
かなり大雑把な話にはなるが社会は人間の身体と通じるものがある。
一つの問題に複数の組織が協力すれば楽に解消できるがそれを続ければ歪みとなり、それ自体が問題となる。
右と左、上下に前後のバランスを取らなくても歪みとなる。
だからといって複数の組織が協力するの前提で行われてきた問題に対して歪みの問題も抱えたまま今更1つの組織のみで対処できるわけもない。
可動域が狭い数値のみ、結果重視の社会が抱えた問題は可動域の広い過程を通じてしか改善できない。
しゃがむ事すら教えられず、ままならない子供達、若者達は反動を使って高く飛び上がる事が出来ない。
猫背のように倒れ込んだ老人は自分で背筋を伸ばす事も出来ず。
下と上の板挟みの腰が折れ曲がった中年は疲弊してさらに猫背を強くして歩幅を小さくする。
左右差と同様に優遇された側と冷遇された側では力も器用さも差があり過ぎて同じ社会の一員としては価値観に開きがあり過ぎる。
まぁ、過ぎたるは及ばざるが如しというように結局はバランスなのだがどれだけ他者を踏みつけてのし上がろうとしても同じ社会の中では円運動。1人だけでは前には進めぬ。
成功の裏には失敗がある。
自分の伸展の裏には他人の収縮があり、自分が収縮しなければ他人の伸展もない。
そうした伸展と収縮の果てに活力と意識が増大する。
トレーニングなんてせずに全部機械やAIにしてしまえるならそれでも良いんだけどな。