60点その2
その2と続けるつもりは無かったが、浮かんでしまった。
唐突だが自分は「ピンポン」という漫画が好きだ。
最初は実写映画を見て知った。DVD、そして漫画本を買い、アニメも何度も見た。
実写の方は何が自分の琴線に触れたのかわからないが、一時期は毎日見るくらいにはハマっていた。
とはいえ割と人を選ぶ類の作品だ。
自分も少し卓球をやっていた事もハマる一因だったのかもしれない。
個人的な感情はさておき、そのピンポンについてこんな評価を見た。
「この作品はスポーツを本気でやった事があればあるほど心に刺さる神作品」
こうした評価をした人間は最上級の褒め言葉として書いたのかもしれない。
しかし自分はこの評価を見て引っかかるものを感じた。
何故なら自己は卓球はやってはいたがかなり短い期間だったし、熱量も低かった。
今でこそ筋トレを趣味として長く続けていて筋トレを楽しめるくらいには「本気」だ。
だがピンポンを知った当初は筋トレなんてしていなかったし、何ならゲームや漫画が好きな所謂オタクだった。
それでも「ピンポン」という作品を好きだという事は確かだ。
こうした「◯◯を深く体験していればこの作品はさらに理解できる」という話はたまに見かける。
確かにスポーツなどのリアルを経験していれば作品内における技術や戦略についてはそうかもしれない。
だが自分は必ずしもリアルの経験がその作品の理解度に繋がるとは思っていない。
そして経験がなくても理解できるからこそ「神作品」だと思う。
自分はピンポンの他にも格闘漫画が好きであるが格闘技経験はない。
とある好きな格闘技漫画で考察を重ね、SNSなどで他の読者が意表を突かれた、としている中で展開を予想し的中させたこともあるほどにその作品を理解していたのは自分のちょっとした自慢である。
ストーリー上で泣かせられる場面では何度読み返しても涙が流れる。
確かに技術などへの理解自体は素人目線である以上、浅いのかもしれない。
しかしそもそも漫画家自身が漫画家でしかない。
仮に格闘技経験があったとしてもその格闘技漫画は空手から総合からボクシングに喧嘩、多種多様な格闘技を取り扱っていて漫画オリジナルの技術や流派もある。
それらを習得、あまつさえマスターするなんて無理だ。
漫画家はどこまでいっても漫画家。格闘技やスポーツのプロではない。
そしてそれは読者にもあてはまる。
読者はどんな経験をしていようが読者は読者でしかない。
理解度は読者の経験、つまり読者の世界で完結するわけではなく、あくまで読者がその作品にどれほど愛を向けたか。
経験はその理解度を高める手助けにはなるかもしれないがそれが絶対ではない。
漫画愛を語りたい、というわけでもなかったのだがつい熱くなってしまった。
しかし、この「○○をしなければ△△の本質は分からない」と的な考え、どうにも気に入らない。
ピンポンの例えでいえはそこには「スポーツ経験者の読者」が「スポーツ未経験の読者」を見下している構図になっているからだ。
これが「野球をした経験がなければ野球の本質はわからない」という風に○○と△△に同一の物が入るのであればそれは自分も文句はない。
そしてこうした体験した物は別物であるのに他方を見下す様というのは漫画だけでなく、様々な所で行われている。
こうした特定の事をやれば万物に適応される、というようなある種の脳筋的な思想は自分のエッセイで言う所の女の性質により制限された中で男の性質が上に上に、と100点を目指す社会と非常にマッチする。
社会的に昔から価値を認められたコンテンツの経験の有無、そして経験でもレベルを分けられより高いレベルの経験。
そのコンテンツに対しての経験の無さがコンプレックスを産み、それが毒となって他の物への挑戦心をも阻む。
経験なあれば無い者を見下して優越感を抱く。
しかしさらに高い次元の者に対しては特別扱いして遠ざける。
その高い次元の者は遠ざけられるから孤独感に悩まされる。
格差が差別を生み、差別は理解を遠ざける。
理解をしなければそこに未知が広がり、恐怖が生まれ、悪とする。
だから最近政治家が「多様性」をしきりに発信しているがそれは「新しい物」ではない。
既にそこにあるのに多数派が見下したり、見てこなかった少数者を認識するだけの話だ。
それは多数派からすれば「普通」から逸脱した「無駄」かもしれないが少数者からすればそれこそが「最低限」であり「全て」だ。
多数派からすればそうした無駄な物に支払った税金などが使われるのは憤慨する気持ちかもしれないが、逆の視点からいえばこれまでそこに存在していた少数者の支払った税金はそうした多数派の「普通」のレベルを高める事に使われてきた。
いつまでも多数派を優先させても行き詰る事はこの高齢化社会を見てもわかる。
未知のもの、「無駄」とするコンテンツや世界を仕事等の報酬として趣味や娯楽として愛を向ける事として許可される価値観はもう立行かない。
昔からある価値あるコンテンツや仕事に「道」があるように新しい物、鼻をつまみたくなるような物、目を背けたくなる物にさえ「非道」や「外道」の道がある。
だがそれらも道を知ればそこに教えがあり、適切な恐れを知る。
最低限の普通も、多様性も結局は同じ「道」である。
道路は国道だけではなく、県道、町道、私道、様々ある。
それら全て、かつては「獣道」。
舗装するから人が歩ける。車が通る。安心出来る。
そうすることで特別な多様性がただの普通に変わる。
60点を80点にするのなら「未知」を「道」に。
一応言っておくと駄洒落で締めるつもりではなかった…、