サイコパスを救うのは何か。
サイコパスは日本の社会において優遇、というより適応しやすい。
女の性質の決断力と男の性質の様々な物への関心。
そして他者に関心はあるが強い拘りがない。
だから関心を向けたものに対しておおよそ知れば後は興味がなくなる。
サイコパスのような我が道を行く性格の人間にとっては日本の社会、文化や技術も含めて非常に生きやすいだろう。
ただそれ故に色んなサイコパス、と言われる人達がやらかしている。
適応しやすい、とはつまり他人を食い物にする事を何とも思っていないからだ。
決断力の強さで正しい、と思ってしまえばその逆は必要がない物だと判断する。
無駄は許さない。だから自分の糧にする。
勿論その判断基準は自分の経験のみであり、そこには拘りを持つ少数者も、力なき少数者の意見も存在しない。
自分の意見が多数派の声と同調すれば多数派を味方にして革命を起こすし、意見が違えば影で弱き者を責める。
勿論そんな悪どい行為が全部見逃されるわけもない。
サイコパスは世界に賞賛されるために他人を喰らう事を厭わないが行為が行き過ぎればその悪事は全て裏返り、ここぞとばかりに叩かれる。
とはいえ叩かれた所で本物のサイコパスは気にしない。
自分の行動、手法が間違えていたと判断するだけで手法を変えるだけ。
とはいえサイコパスの精神力が無尽蔵か、といえばそんなわけでもない。
感覚としてはサイコパスのそのタフネスはどこぞのメ○ルスライムのような存在だ。
物理も魔法も効かない、まともに相手と戦わない。
けどHPが極端に少ない。
だからサイコパスが長期に渡り関心を寄せた事、逆に他愛のない事が「会心の一撃」となって突き刺さる事もある。
普通の人間はそれが糧となり、成長するがそれがサイコパスの価値観を変えてしまう。
サイコパスの価値観を変えるという事はサイコパスは恐ろしく疲弊する。
自分自身にしか興味のない、メタルス○イムのように外界から多くの刺激が効かない。
今まで80点で満足して興味を失っていた外への拘り。
言ってしまえば特殊能力として「外界からの刺激80点以下はダメージ0」をすり抜けてきた価値観だ。
80点以上は見返りがない。
だからそれ以上を目指すのは無駄である。
80点以上を目指すくらいならビジネスとして契約してしまう方がいい。
そんなサイコパスに突き刺さる80点以上、つまりそれは「信仰」である。
信仰の定義、は自分としては教訓を手にした人、物に多くの人が憧れ共感、師事すること。
宗教とはそれをより分かりやすく表現し、より多くの人に広めよう、そうすれば皆幸福を手に入れる事が出来る、とした概念だ。
つまりは教主がまず居て、それに師事する教徒が一般人に向けた物。
「教主」「教徒」「一般人」それぞれ3つの立場がある。
そしてそれは
「教訓を得た過去」
「教訓を語り広める現在」
「教訓に共感するかもしれない未来」の3つの時間軸でもある。
だがサイコパスの信仰には「自分」しかいない。
会心の一撃で価値観こそ変わってもそれは「教訓を持たないから失敗した」わけであり、「教訓を持った事で救われた自分」こそが正義となる。
だから「教訓を得て幸福になる自分」のために「自分に愛を与える信者」が必要で宗教を作るし、それを受け入れない一般人は「悪人」である。
どうという事はない、メ○ルスライムが集まってメ○ルキングになっただけ。
「自分に足りなかった物は他人から奪えばいい」
本質としては変わっていない。
手法が変わった、戦い方が変わった。
多数派が味方にならないなら多数派を作り出せばいい。
信仰は他人から押し付けられる物ではなく自分から手に入れる物。
自分自身を押さえつけてでも手を伸ばし手に入れたい拘り。
契約で他人から与えられる報酬ではない。
自分が対価を払い、自分が与える自分への報酬。
プラスマイナス0ではない。
三位一体であり無に金と労力と時間を注ぎ愛に変換して己の信仰だ。
自分がメ○ルスライムになっても意味がない。
メ○ルスライムに打ち勝つ事で経験を得られる、教訓になる。
残念ながらサイコパスは何度も価値観を抱えて死ぬしかない。
自分自身への拘り、自分がいかにして幸福に生きる事ができるのか。
それを他人に当てはめる。
他人を喰い物にするのではなく、他人に拘りを向ける。
100点から20点分けてやる。
80点にするのは趣味や仕事だけではない。汎ゆる拘りを80点に。
サイコパスは教主と教徒と一般人を分ける事でカルト宗教から真の信仰の道が手に入る。