応援、その4
趣味を通して最低限から無駄を手にし、拘りの解消法、そして他人を応援できるようになる。
好きな物を通して歌手や漫画家、そうしたクリエイターのファンという者は割と居る。
本来なら曲が好き、作品が好き、というクリエイターが生み出した物が好き、から始まったのにいつしか作品を通してそのクリエイター自身を応援し、そのクリエイターが所属する分野自体を応援する。
さて、その一方で最近では推し活などという言葉が一般的になった。
昔ならアイドル、今なら配信者など、作品を通して価値を見出される存在ではなく、直接その人自身に価値を見出してその人の作った、あるいは関わった作品が好きになっていく流れ。
自分が好きな物ではなく、自分が好きなコンテンツから派生して生み出された物だから購入する。
だから物が増えていく。
個人の趣味だから肯定も否定も出来ない。
ただ自分は好きな作品に触れて作品を好きになり、アーティスト、クリエイターを好きになる。
だからクリエイター達に人間として憧れはあっても好きな作品としては見ない。
だから作品に対して考察の目を向ける。
憧れに近づく為には作品から考察しそのクリエイター達の考えに近づく事だと思ってる。
だが現在の推し活とされる物はどうか。
推す側、ファンからするとクリエイターと作品が同じである。
好きなクリエイターが生み出すからその作品に価値があり、作り上げた物の制作者の名前を伏せれば果たしてそこに価値があるのか。
この手の葛藤は現代のクリエイターだけではなく、過去にもよくある。
クリエイター自身が有名であればあるほど、そのクリエイターが生み出す作品の価値はぼやけてしまう。
だから別名義で作品を作り上げて自身の力が名前を傘に来た物、過去の栄光の産物ではないことを確認したりする。
一時期日本人のモデルなどでもすっぴんブームなどがあったが海外のモデルも見ていると今でも定期的に自身のすっぴん姿だとか、あるいは過去のモデルになる以前の地味で垢抜けない姿を晒してそれでもなお応援してくれるファンの声を聞き、自らの価値を確認している。
さてアイドルや配信者など「好きな物」と「憧れ」が混ざり合えばどうなるか。
答えとしては「混ざり合う事はない。」
アイドル、配信者は憧れではなく「好きな物」になるし、憧れはアイドルや配信者そのものではなく、その人達がいる世界に向けられる。
そうするとかつて憧れた同業者となり、そこで「憧れ」から「尊敬」へ変わる。
憧れ、の漢字の意味する所、漢字の左側、部首は心部であり名前の通り心を意味する。
そして右側は童。
憧れとは弱者である子供の心で強者である大人を見上げる純粋な心。
尊敬とはその漢字の通り。
尊び、敬う事。
さて何故「憧れ」と「尊敬」の違いとかいう国語の授業のような事をしたのか、といえばこの境目が80点となると自分は考えているからだ。
憧れている内は79点以下。
そしてそれが尊敬に変わるのが80点。
ではそれ以上81点以上は何になるのか。
趣味が仕事に変わって仕舞えばそれは生きる上での無駄でさなく、生きるために最低限、それまでとは異なる新たな60点になる。
しかし趣味のまま81点以上、100点になろうとするとろくな事にならない。
ネットストーカー、反転アンチ、などなど。
好き過ぎて、憧れ過ぎて、粘着する。あるいはその好意に反した行動を取られてアンチとなる。
憧れている間は弱者。
だがアイドルなどを応援出来る。
だが応援という行動ができるのは強者である。
矛盾があるように思えるが憧れの間は自分とその対象のいる世界が別。
頑張っている、努力してある、勇気がある、というのは裏返せば頑張らなくてならない、努力しなければならない、勇気を出さなければならないという挑戦者、弱者である。
ネットやテレビを通して別世界の弱者に対して応援している強者である。
勿論、憧れが尊敬へ切り替わっても応援は出来る。
とはいえそれはファンなどと同じ事をしたとしても強者から弱者に対する応援ではなく、というより祝いに近い。
祝い、とは主に過去の出来事に対しての事を祝う。
例えば努力に対して。
応援は努力を支える、という意味合いを持つように現在進行形。
しかし努力を祝うとは言わない。
努力して出した成果を祝う。過去形である。
グッズを買う、投銭をする、ライブやコンサートのチケットを買う。
ファンとして、同業者としてやっている事自体は同じでも意味する所、向けている方向は別なのである。
さて同業者の立場、尊敬の立場での応援的行動が祝い、であり過去を称賛するもの。
憧れという別世界から弱者へ向けての応援が現在を支えるもの。
では81点以上、100点を目指す者達からの応援とは何か。
それは祈りである。
祈り、といえば教会などで手を合わせたりするような物でそうしたイメージだとポジティブに思えるかもしれない。
だからもっとイメージをフラットにする。
例えば昔からある儀式、雨乞いなど。
何かをする代わりに要求をする。
踊りだとか、何らかの苦行だとか、そうした神事、祭りもあるがもっとネガティブなイメージを持ってくるなら「生贄」、つまりは犠牲である。
勿論、応援という行為自体が金や時間、労力の犠牲の元で成り立っている。
だが応援した時にその犠牲を犠牲とは思わない。
リターンがあるからだ。
だが払った犠牲に対してリターンが満足のいくものでなければ困る。
だから祈る。
自分の払った犠牲に見合うリターンを要求するために。
次第に祈る事すらなくなる。
対価を捧げた祈りの無い要求、とはつまりは契約である。
とはいえ、推し活などのそれはあくまで応援の範囲内。
80点を超えた対価を払ったところで返ってくるのは80点相当。
そこを80点のリターンしか来ない事を理解した上で自己満足でそれ以上の対価を払うなら問題ない。
だが応援と称して対価が支払われない事が分かり切っているのに払った犠牲以上の対価の要求をする人達。
そこにはコンテンツ、あるいはクリエイターの憧れもなければ尊敬もない。
返ってこないと分かっている物を返せと叫ぶような理不尽な要求は応援とは言わない。
応援をしたければ60点から点数を上げていく必要がある。
しかしいくら応援したとしても応援は応援。
主役にはなれない。
返ってくる物も限界がある。
その返されない「無」に価値を見出せばそれが自らの教えとなり、信仰になるがそれを理解してくれる人はおらず、自己満足の世界。
信仰をしたければ80点の先を歩めば良い。
リターンが欲しければ契約すれば良い。
どちらにせよ、80点から先は1人の道。
その心の内を理解してくれるのは身近な人でもないし、応援する対象でもない。
同じように信仰に至った者か、あるいは契約を結んだ者だけ。
皆と応援の喜びを共有したければどこかで素直に満足して留まるのが吉。
まぁ、応援について語りたいのはこんな所かな。