応援、その2
応援の工程における「甘えさせる」という女の性質である他人の弱音を「消極的に受け止める」という工程の次、改善点の提示、つまり「問題解決の手助け」。
弱者としては強者に甘え、弱音を吐いて満足した後、挑戦の工程に移る。
弱者の挑戦は成功するか失敗するか、それは分からない。
実力、相手の力量、時の運、そうした物が絡み合って結果となる。
ほぼ確実に成功するならそれはただの作業であり、挑戦とは言わない。
一か八かの運任せ、ギャンブルも挑戦とは言わない。
相手が格下だったら「胸を貸す」、相手が格上なら「胸を借りる」。
成功するかしないかは50/50。
成功のための勝算はある、しかし失敗する敗因持ち得る。
その天秤を制御する術が挑戦である。
挑戦者は挑戦をする時点では成功の最低限、60点に満たない、50点ほど、どれほど高く見積もっても59点しか力がない。
挑戦によって成功し、それを60点に引き上げる。
その成功のために応援が力を貸す。
弱者個人で何度も失敗して成功まで挑戦を続けて力を積み上げて言ってもいい。
だがそのために弱者は愛を消費する。
その挑戦するために金などの何か対価が必要なら挑戦自体を控えなければならない。
そして挑戦には体力、精神力を消耗し、その回復には時間がかかる。
問題に対して愛を失うという事は言い換えれば自信を失うという事。
それは結果として見れば拘りへの納得、満足と同じである。
そこを自分の中の80点としてしまう事になる。
たとえ自信を失い、納得、満足してそこを80点としても趣味や娯楽なら全然問題ない。
しかし、これが趣味ではなく生活に最低限必要な行為ならどうか。
勉強あるいは仕事、食事、睡眠などというごく普通の行為である。
自分も一時期は食事も睡眠も、そして風呂もろくにこなしていなかった。趣味の筋トレも全然。
こなしていない、というよりこなせなかった。
鬱状態の人はネットなどで見聞きすれば概ねそんな感じである。
鬱状態だからそうなるのか、それともそうした行為がろくにこなせないから鬱状態になるのか、それは医者じゃないから詳しくは分からない。
ただ生きていくなかで色んな自信の喪失が「生きる」という行為に対して納得を与えてしまう。
一般人の最低限の60を自分の80点としてしまう。
同時に上限下限の点数が下がり、我慢を続けてドンドンドンドン80点の基準を下げて最後は消える。
基本的に日常生活でも挑戦でも同じ事。
問題に直面して出来ない人間が煮詰まっている時や助けを求めた時、そこに「手助け」をするべきなのだ。
50点の人間が最低限にたどり着くためには80点の人間が10点分の手助けをすれば良い。
その手助けを「そんな事をすれば甘ったれになる」と否定するのはその人の手助けのライン、あるいは成功のラインが高すぎる、過剰なのだ。
50点の人間に70点を求めれば与える点数も20点と増える。
100点を目指すような人間からすれば他人に求める能力もそれなりに高くなるだろう。だがそれは最低限をクリアした者達に対して、そしてその中でも更に上に向かおうとする者達にのみ求めるべきだ。
弱者、挑戦者が挑むのはまず60点。最低限をクリアする。
その後自ら70点を目指し、80点を目指す際にどこかで壁にぶち当たったら改めて助けを求める。
60点を目指す場合、挑戦者本人に50点ほどのある程度の水準は必要になる。
50点の実力を持っていなければ10点分の応援ではそもそも挑戦の勝ち目すらないからだ。時期尚早。
そして応援する側が何故80点である必要があるのか。
60点の人間では自分の成功した理由を完全に把握して言語化出来ないし、他人に向ける余裕もない。
70点では助言の前の「甘えさせる」という工程で10点を使ってしまい60点に成り下がり、余裕がなくなる。
90点以上の人間では先述の通り、他人に求める成功のラインと手助けのラインが高くなり過ぎる。
だから80点。
10点を使い「甘えさせる」、更に10点を与えて「手助けする」。
応援とはあくまでサポート。
映画やゲーム、漫画などには主役だけではなく脇役がいる。
名脇役は存在感はあるし、作品に華を添えるがあくまで引き立て役。
決して主役を食わないのである。