応援、その1
前話でもそれなりに語ったのだが応援という行為の持つ最初の段階。
「甘えさせる」ということ。
そしてよく教育の場でも「甘え」に対してどうするのか。
昭和気質な頑固一徹親父みたいな問答無用で突き放す、というのは昭和の空気感もさることながら単純に子供が多く、子供が生きる上でやる事がシンプルだったから許された。
子供が背負いきれない、解決しきれない行為と子供が直接触れる機会が極めて少ない。
子供が直面する責任は子供が解決できる程度の大きさしかなかった。
「井の中の蛙」という言葉があるが逆に言えば当時の社会は年齢にあった、そして力にあった狭い世界で生きる事が可能であった。
今は未熟なオタマジャクシだろうが川魚だろうが問答無用で大海に放り込まれる時代だ。
身の丈以上の世界と簡単に触れる事ができる。だからこそ責任を持つべき親の教育は昔に比べて影響が大きい。
だから現代では昭和的な突き放す行為をする事は育児放棄で許されないのだ。
さて本題の「甘えさせる」と「甘やかす」の違い。
甘え、つまり弱音である。
その他人の弱音に対してどう向き合うか。
「受け止める」という女の性質で構成された弱音への対処方が「甘えさせる」。
一方、弱音を吐いてもいないのに「引き出そう」 とする男の性質で構成された対処が「甘やかす」という事。
理想としては「甘えさせる」のが良く、「甘やかす」ばかりでは駄目になる。とはいえ状況の違い、個人差はある。
自分一人で何でもかんでも背負い込み誰にも弱音を吐かず、パンパンに膨れ上がるまで無理をする人もいる。
その人には多少強引でも「甘やかす」必要がある。
「弱音」 とは本来心の中に秘めて置きたい恥ずかしい陰の思い。
それに対処するのは強引に光の下に引きずりだすのではなく、応援する者自身もその陰の中に入り、寄り添うしかない。
だがもしも寄り添えないほど遠く深い闇の奥に向かったなら、その時は手遅れになる前に灯りをつけ、探し周って光の下、目の届く場所に引きずってでも連れてくる必要がある。
弱音というのは本来なら人にすすんで公開したくない。
それを自分も理解しているから自らすすんで言語化はしない。
逆に誇れる事、自慢したいことは誰もが言語化して語りたくなる。
とはいえ多少の自慢は笑って許される、称賛されるが土を過ぎればウザがられる。
こちらの対処は応援と真逆。
自慢への対処は自慢を「盛り上げて」満足させる男の性質の対処が禍根を残さない。
逆に自慢に対して「受け流す」、つまりはスルーする女の性質をそのままぶつければ自慢する側はムカっとして苛つく。
勿論、場合によりけりではあるが基本的に自慢への対処と弱音への対処としてぶつける男女の性質は真逆。
そして対処が真逆という事は弱音の解消法、自慢の解消法も真逆。
弱音は本来誰にも知らせたくない、自分自身でさえ見たくない。だから言語化し、誰かに伝える事で解決法を見出して解消される。
自慢は大勢に伝えたくて仕方ない。だからあえて少人数の仲間だけに自慢し、大勢の人にいつか自慢するためにさらなる向上心に繋がる。
最低限の女の性質だけでは応援が出来ないのは弱音を受け止める事はできてもその後の挑戦の成果への報告に対して興味が持てないから。
100点を目指す男の性質だけでは弱者が自分の力で解決しよう
、成長しようとしているときにその糧を奪ってしまうから。
そして自分自身の100点を目指す拘りの強い人間は他人の低いレベルに対し時間の無駄だと不寛容になりやすい。
だから80点。
弱音を受け止めるだけの余力、それでいて挑戦した後の自慢したい成果を共感出来るだけの関心を持つ。
応援とはまず第一に挑戦しようとしている弱者の弱音を受け入れる事、そしてその成果を待ちわび、共感できるだけの余力が重要になる。