番外編・バニラの記憶
☆七夕記念番外編・吉野兄妹
小さな頃、真知はよく泣く子だった。
きらいなにんじんを無理やり食べさせられれば泣き、お向かいさんの飼うチワワに吠えられると怯えて泣いていた。
そのたびにいつも一緒の倫が彼女を慰めるのだった。
あれは二人が五歳の七夕の日。
当時の真知は、商店街の中の小さなケーキ屋のシュークリームが大のお気に入りだった。
外の皮はふわりとやわらかく、中のカスタードクリームはとろりと甘い。
よくお母さんが商店街へ買い物に行くと聞けばくっついて行き、シュークリームを買ってくれとねだった。
あまりに真知が気に入って、ある日虫歯を作った。それ以来、「虫歯が増えると困るから一ヶ月に一度だけよ」と言いつけられていたのだった。
いつも買い物に行くとにこにこと応対してくれる優しいケーキ屋のおじさんも、今日は眉をハの字にして困ったように真知を見つめていた。
「ごめんね真知ちゃん……。シュークリームはさっき売れちゃって、今日の分はあと一個しか残ってないんだ」
「いえいえうちの子がわがまま言ってすみません。残りの一個、いただけますか?
真知もいつまでも泣いてるんじゃないの。真知が食べる分はあるんだから、いいじゃない」
いつもは籠いっぱいに積まれるシュークリームも、夕焼けで空がにじむ時刻では見る影も無い。
ぽつんと残っていたシュークリームを申し訳なさそうに詰めるおじさんを、真知はしゃくり上げながら見つめていた。
「うぐ……ミチと二人でたべれないと、いみないもん……ひぐっ」
「マチ、マチ、泣かないで」
お母さんに窘められてより涙を溢れさせた真知に、そばに寄り添うようにしていた倫はペンギンのポシェットを慌てて漁った。
ポシェットは、あまりに高い頻度で泣き出す真知のためにお母さんが倫に用意したものだ。中身はポケットティッシュとビニール袋とハンカチ。
「ほら。ちーん」
ちいさな鼻に充てがわれたティッシュを真知はありがたく受け取って、遠慮なく鼻をかんだ。
そんな真知にゴミ袋代わりにとビニール袋を渡しながら倫は甲斐甲斐しく涙でべたべたの顔をハンカチで拭ってやる。慣れた手つきだった。
相変わらず仲の良い幼い双子に目元を和ませたおじさんは、シュークリームと折角だしと頼んだチーズケーキの包みとともに、店頭に飾られていたミニサイズの笹と白紙の短冊を二枚差し出した。
「そんな……すみません!ありがとうございます……っ!ほら二人も!お礼!」
「あ……ありがとうございます!」
「んっ……ありがとう、ございます……」
母親に促されるままぺこりと頭を下げる双子に「いつも来てもらってるから」と手を顔の前で振ったのち、おじさんは真知に向き直った。
「よかったらまた来てな」
店先まで出て真知の頭をぽんと撫でたおじさんのエプロンからは、甘いバニラの匂いがした。
あの日の短冊に自分はなんと書いたのだろう。
思い立って懐かしい商店街へ足を向けたものの、あのお気に入りだったケーキ屋はなくなっていた。
一昨年の春に、店主のおじさんが腰を悪くして続けるのが難しくなったのだとお母さんは言っていた。
知ってたんなら、教えてくれたらいいのに……。と、つい埒のあかない考えが頭を過るほど真知の口はシュークリームを求めていた。
真知は最近の流行でもあるさくさく生地のシュークリームよりも、やわらかく、ふわふわした皮の方が好きだ。噛み締めると夢心地になるような。
そういうわけで、体重を気にする繊細な女子高生としては喜ばしくないけれど。誘惑に負けた真知はこうして夜も八時を過ぎた時間にコンビニで購入したシュークリームを食べるに至ったのである。
この頃のコンビニスイーツというのはばかにできないもので、例のケーキ屋の味には叶わないものの真知のシュークリーム欲を満たすのには充分だった。
残り三口もあれば食べ終わる。そんなとき、「ただいま」と玄関で声がした。倫だった。
いつも使っているエナメルのスポーツバッグを肩にかけたままリビングに入ってきた倫は、こんな時間にシュークリームを頬張る真知を見て目を見開いた。
やがて「ふくくっ」と変な笑いを洩らしたと思ったら、すぐそばにあるティッシュ箱からおもむろに数枚取り出して真知に近づく。
「クリームついてるよ」
この年になって気恥ずかしくてそっぽを向いて「知ってるよ」と返したのに、倫は楽しそうに笑うばかり。
「…………ありがと」
「ん。いー子。それよりそれ、一口ちょうだい」
どうせならとシュークリームの残りの分をちぎって、大きなかたまりを倫に渡した。
とろりと破れた皮から垂れてくるカスタードクリームを眺めながら、ふっと倫は目を細めた。「懐かしいな」
「懐かしいって?」
「ほら、昔の七夕の日もシュークリームを半分こしたろ。お店のが一個しか残ってない!ってマチが泣き出したとき」
泣き虫だった小さな頃を持ち出されると真知も決まりが悪い。未だにおかしそうに笑い続ける倫に自然と口がへの字になる。
そんな倫を無視して残り一口となったかけらを顔の前に持ってくると、ふわりとバニラの香りが鼻をついた。
『ミチとずっといっしょにいられますように』
まるで気ままに風にそよいでいた記憶の風船をなんの気なしに手にしたように、あの日の短冊が下手くそな字に至るまで鮮やかに脳裏に蘇る。
真知にはまだ書けないひらがなもあって、二人して折角二枚短冊をもらったというのに一枚に願いをしたためた。
けれどもどちらも願いは同じだったから、別に二枚なくてもよかったのだ。最初の二文字がどちらの名前になるか、という違いしかない。
真知は残りの一口を敢えて味わうことなく平らげた。
二人だけの部屋に、甘いバニラの香が満ちる。