8. 頃合い
あの観劇から、一ヶ月が過ぎた。
結局俺は、街に行ってみたいと言う機会を逃し続けていた。ルーファスが前にも増して忙しくなったからだ。
毎朝の見送りは続いている。観劇の後からは、ルーファスの方からも頬や目元にキスしてくるようになった。それに加えて「愛しています」と言うものだから、使用人たちは俺をまるで伴侶のように扱ってくれている。
(愛してるって言われる度にドキドキするようになったな……)
普通は慣れるものだと思うけど、どういうわけか、回を増すごとに鼓動が早くなって顔も熱くなる。今も思い出して火照った頬を、パタパタと手で扇いだ。
「……でも、そろそろ頃合いかな」
部屋のバルコニーから外を眺め、そっと息を吐く。
最近ルーファスの帰りが遅いのも、外泊が多いのも、時々オシャレをして出かけるのも、きっと好きな人ができたからだ。
そのうち俺にも紹介してくれるはず。そしたら仕事をしたいと伝えて、面接を受けに行こう。
(経理と営業は出来るし、雑貨屋の店員もいいな)
近くの街に交易品を扱う店が幾つかあると、この国のガイドブックのような本で読んだ。
お客さんと会話を広げて商品を売り込むためには、この国の人たちとの会話に慣れる必要がある。屋敷の人たちは俺を丁重に扱ってくれるから、もっと平民扱いしてくれるような……。
「いっそ、食堂とか……酒場とか?」
「酒場で、何をなさるおつもりで?」
「!?」
突然背後から声がして、思わずびくりと跳ねた。振り返る前に抱きしめられて、身動きが取れなくなる。
「一夜を共にする相手を探すのでしたら、私にしてください」
「えっ、違うっ、俺、酒は弱いしっ」
前世の接待の場でも上司から「お前は絶対に飲むな」と言われたくらいだ。すぐに真っ赤になって眠ってしまうらしいから、酒豪が多いイメージの酒場で相手探しなんて考えていない。
「……酒場は、酒を飲むだけの場所ではないのですが」
「え? ……あっ。怪しい情報を買う気もないよ?」
アクション映画ではよく怪しい取引の場になっていたなと思い出す。ファンタジーものでも冒険者が「情報を集めるなら酒場だな」と言っていた。そう考えると、侯爵家で甘やかされて育った俺を心配するルーファスの気持ちも分かる。
「………………では、何故酒場に?」
長い沈黙が落ちて、ルーファスは何だか諦めたような声を出した。抱きしめていた腕を離され、今度は向かい合わせで肩を掴まれる。
「えっと……働こうかな、と……」
「働く?」
「もう俺は平民だから、何もしないでこんなにいい暮らしをさせて貰うのは申し訳なくて……」
ルーファスに恋人ができたみたいだから出て行く準備をしたい、とはとても言えない。がっちりと肩を掴んだ手が、まだ俺をここに置いてくれるのだと訴えていた。
「……そういうことでしたか」
眉間から皺が消え、ルーファスは安堵したように微笑んだ。
「では、式を早めましょう」
「え…………死期? 俺、殺される……?」
「何故そのような誤解を……結婚式のことです」
「結婚式……?」
「貴方がもう少しこの国に慣れてからと思っていましたが」
「待って、どういうこと?」
婚約したのは俺を護るためで、いつか解消する、仮の婚約だろう?
戸惑う俺の頬を、ルーファスの手が優しく撫でる。
「私と結婚すれば、平民ではなくなります。伴侶ならば、この暮らしは当然の権利です」
そこまでして、俺のことを護ろうとしてくれているんだ……。
その気持ちは嬉しい。俺たち家族を受け入れてくれたのは恩返しだと言っていたけど、俺は幼い頃からルーファスに護られるばかりで、恩を返して貰えるようなことは何もしていない。
「……結婚は、できない。ルーファスには、好きな人と結婚して欲しいんだ」
「私は貴方が好きですが?」
「そうじゃなくて、ちゃんと恋人として好きになれる人だよ。ルーファス、好きな人がいるんだろう? 最近外泊も多かったし……」
「……ここまで伝わらないものですか」
ルーファスは俺の肩を掴んだまま、うつむいて深い溜め息をついた。
「外泊が多かったのは、遠方の兄たちがそれぞれの屋敷で私の帰国祝いをしてくれたからです。ノエル様にお伝えしなかったのは、婚約者の義務を強制して困らせたくなかったからです。貴方はまだ、私との婚約に戸惑いがあられるようでしたので」
それが、外泊の理由。酷く安堵したのは、理由を知ったからだろうか。それとも、ルーファスに恋人がいないと知ったから……?
「従者との婚約など嫌悪されても当然ですが」
「違うっ……俺はもう平民だし、それに、ただ……ルーファスには、本当に好きな人と結婚して欲しかったんだ」
「私は幾度も、貴方を愛していると伝えてきましたが?」
「それは……」
そこでようやく気付く。いくら主人として敬ってくれていても、愛している、なんて言わないんじゃないか……?




