平伏する神話の厄災
人間の勇者による下らない反逆の火種が、アリアの黒剣によって文字通り血の海へと沈められてから数日が経過した。
覇王ブライスの居城、その最奥にある玉座の間。
人間界の完全な平定を終え、もはやこの箱庭に歯向かう愚か者がいなくなったことで、ブライスはひどく退屈そうに玉座で頬杖をついていた。
その傍らで、高位森霊族の帝国から接収した分厚い古文書をパラパラと捲っていた『白銀の姫』アイリスが、不意に琥珀色の瞳を輝かせた。
「ねえ、ブライス。この大陸の最果てに、神々や人間たちが恐れて数千年前に封印した『厄災の門』というものがあるらしいわ」
アイリスは古文書を閉じ、遊びに出かける子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「万物を喰らい尽くす神話の魔獣が閉じ込められているんですって。面白そうだから、ちょっと開けてみない?」
「……お前は馬鹿か。なぜわざわざ、厳重に縛られたゴミ箱の蓋を開けに行かねばならない」
ブライスは深い溜め息をつき、ひどく嫌そうな顔をした。
しかし、アイリスが一度言い出したら絶対に聞かない性格であることを、彼は神話の時代から嫌というほど知っている。彼女が強引にブライスの腕を引くと、彼は面倒くさそうに立ち上がり、護衛として第一の悪魔ヴァイスを伴って虚空へと跳躍した。
一行が姿を現したのは、生命の息吹など一切存在しない、荒涼とした巨大な大渓谷の最奥であった。
空は禍々しい紫色の雷雲に覆われ、大地には「絶対不可侵」を示す巨大な神の楔が無数に打ち込まれている。
そして彼らの眼前にそびえ立っていたのは、山脈と見紛うほどに巨大な石の扉――『厄災の門』であった。
何万本もの光り輝く神聖な鎖で縛られ、幾重にも重なる高位の封印魔法陣が、その奥に眠る絶望を必死に押さえ込んでいる。
「我が主様、アイリス様。ご注意を」
ヴァイスが片眼鏡の位置を直し、恭しく進み出た。
「あれは神話の時代、かつての神々が多大な犠牲を払って封じ込めたとされる厄災の狼……世界を喰らう魔獣フェンリルの檻。あの封印を解くには、複雑な神の術式をいくつも解除し――」
「鍵開けなら任せて。こういうの得意なのよ」
ヴァイスが解説を終えるより早く。
アイリスは楽しそうに門の前に立つと、人差し指に『白銀の魔力』をほんの僅かに収束させ、巨大な扉に向かってデコピンのように軽く指を弾いた。
パァァァァンッ!!
「……え?」
ヴァイスが呆けた声を漏らす。
神々が数千年かけて維持してきた絶対封印の鎖と多重魔法陣が、硝子の玩具のようにあっけなく、ただの一撃で粉々に砕け散ったのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!
封印が解かれた瞬間、大渓谷そのものが真っ二つに割れ、底知れぬ地割れの中から、天を衝くほどの膨大な漆黒の瘴気が間欠泉のように噴き上がった。
『オオオオオオオオオッ!!』
世界を震わせる絶望の咆哮。
割れた大地の中から姿を現したのは、山のように巨大な体躯と、血のように赤い六つの眼を持つ神話の魔狼――フェンリルであった。
数千年の幽閉から解き放たれた厄災の魔獣は、歓喜と殺意に満ちた咆哮を上げ、眼下に立つちっぽけな三つの影を見下ろした。
『グルルル……! 我が封印を解いた愚か者どもよ! 貴様らの血肉を最初の贄とし、神々すらも我が牙の錆にしてくれようぞ!!』
フェンリルは、世界を滅ぼす気満々であった。
その圧倒的な質量と、触れるだけで命を刈り取る瘴気を纏った巨大な顎が、ブライスたちを丸呑みにせんと猛スピードで襲い掛かる。
だが、ブライスは逃げるどころか、一歩も動かなかった。
「……うるさい犬だ」
ブライスが不快そうに目を細め、その身からほんの僅かに『古竜の覇気』を漏らした。
同時に、隣に立つアイリスもまた「悪い子ね」と微笑みながら、理外の『白銀のプレッシャー』を解放した。
その瞬間。
襲い掛かろうとしていたフェンリルの時間が、空中で完全に凍りついた。
(――あ、ヤバい)
魔獣の極限まで研ぎ澄まされた野生の勘が、警鐘どころか絶望のサイレンを脳内で鳴らした。
目の前にいるちっぽけな人間たちは、神ではない。神などという生易しいものではなく、触れた瞬間に己の魂すら塵芥にされる、宇宙の深淵そのものだと理解してしまったのだ。
『ヒ、ヒィッ!?』
フェンリルは空中で強引に姿勢を捻り、自ら地面に向かって激突。
ズサァァァァァッ!! と凄まじい土煙を上げながらブライスたちの足元まで滑り込むと、世界を喰らうはずだった巨大な体を仰向けにし、四つ足を宙に向けて、無防備な腹を全開にして見せた。
それは、狼の生態における「完全なる服従」のポーズであった。
「キャン! クゥ~ン、クゥン……ッ」
先ほどまでの神話級の威厳など微塵もない。
フェンリルは「すんません、調子乗りました、どうか殺さないでください」と全身で語りながら、必死に、千切れるほどの勢いで巨大な尻尾を振っていた。
振らざるを得なかったのだ。この理不尽な化物たちの前で少しでも敵意を見せれば、次の瞬間に自分がこの世から消滅することを、本能が完全に理解してしまったからだ。
「……なんだ、随分と聞き分けのいい犬じゃないか」
ブライスが呆れたようにため息をつく。
その横で、第一の悪魔ヴァイスは、神話の魔獣のあまりにも無惨な手のひら返しに、言葉を失って片眼鏡を落としそうになっていた。
「わあ、大きなワンちゃんだ! ふかふかね!」
アイリスは無邪気な声を上げると、仰向けになって震えるフェンリルの腹の上にふわりと飛び乗った。
フェンリルは白銀の姫に触れられた恐怖で失禁しそうになりながらも、決して彼女を振り落とさないよう、全身の筋肉を硬直させて「フンス、フンス」と必死に愛想を振りまいている。
「ねえブライス! この子、お持ち帰りしてもいい?」
「……好きにしろ。城の番犬か、お前の乗り物くらいにはなるだろう」
ブライスは、血の涙を流さんばかりに媚びへつらう巨大魔狼を見下ろし、冷たく告げた。
「今日より貴様は、我が配下……『八指』の座に就くことを許す。僕と、この白銀の女に一生その尾を振り続けろ」
『ワ、ワンッ!!(御意のままに!! 一生ついていきます!!)』
フェンリルは涙を流しながら、歓喜(という名の安堵)の雄叫びを上げた。
こうして、かつて神々が恐れ、人間が絶望した神話の厄災は、最強の古竜と白銀の姫の前にあえなく平伏し、覇王軍の便利なペット兼『八番目の指』として、その陣容に加わったのである。




