新世界の箱庭
天界が地に墜ちてから、数年の月日が流れた。
人間国の王都は、かつてないほどの繁栄と「平和」を謳歌していた。
魔族の襲撃に怯える夜は消え去り、飢えも病も、そして国同士の愚かな領土争いすらも、この世界から完全に消失した。
王城の執務室。かつて人類の希望と呼ばれた勇者レオンは、穏やかな朝の光の中で、民のための政務にペンを走らせていた。
その横顔には、迷いも苦悩もない。
だが同時に、かつて己の運命に抗おうとした、あの激しい「熱」も完全に抜け落ちていた。
彼は、そして世界中のすべての人間は、疑問を抱くことすら忘れていた。
なぜ世界がこれほどまでに静かで、悲劇が起きないのか。
それは彼らが、魔の王が敷いた『絶対の理』という巨大な箱庭の中で、決められた役割をこなすだけの「幸福な操り人形」へと作り変えられてしまったからに他ならない。
絶望がない代わりに、自由意志も存在しない。ただ静かに機能し続けるだけの、狂おしいほどに美しい世界。
視点は移り、遥か魔族領の地下深くに建造された、巨大な大空洞。
そこには、世界の平和を底辺から支え続ける『源』が存在していた。
何重もの強固な魔法陣と呪縛の鎖に縛り付けられ、宙に磔にされているのは、かつて全知全能を誇った女神である。
彼女の瞳はすでに焦点を失い、永遠の虚空を見つめ続けている。
その身から無尽蔵に溢れ出る神聖なる不死の力は、大空洞に刻まれた巨大な変換魔法陣を通して、限りなく純度の高い魔力へと反転させられ、地脈を通じて世界中へと供給され続けていた。
その残酷な泉の傍らには、四柱の悪魔が静かに控えている。
影を束ねる執事・ヴァイス、漆黒の刃を帯びたシュバルツ、紅蓮の闘気を纏うルビー、冷徹なる絶対零度のサファイア。
彼らの瞳に、かつての神に対する畏敬も哀れみもない。ただ、自らの主が定めた世界の動力を、永遠に管理し続けるという絶対の忠誠だけがそこにあった。
すべての争いが消え去り、完璧な秩序だけで回る静かな世界。
その頂点たる魔族領の最奥、ブライスの屋敷のバルコニーに、心地よい朝の風が吹き抜けていた。
「……お茶が入りました、主様」
透き通るような声と共に、一人のメイドが静かに歩み寄る。
かつて天界の言葉を人々に伝える聖女であった、セシリアだ。
神の代行者としての煌びやかな法衣は、とうの昔に脱ぎ捨てている。今の彼女が身に纏うのは、黒と薄鈍色を基調とした、一切の無駄な装飾を排した簡素な衣服。主の極限の合理主義を体現したようなその機能的な姿は、今の彼女の在り方そのものだった。
一切の淀みもない完璧な所作で、計算し尽くされた温度の紅茶がティーカップに注がれる。
セシリアの瞳に、かつての光はない。しかし、悲壮感も全くなかった。彼女は今、世界の理を統べる主の傍らで、完璧な日常の一部として機能していることに、静かで空虚な幸福を感じていた。
「ありがとう、セシリア」
ブライスは静かにティーカップを受け取ると、眼下に広がる広大な領地を、そしてその先に続く争いのない世界を見下ろした。
愚かな戦争も、神の気まぐれな干渉もない。悲しみすらも排除された、どこまでも静かで機能的な美しい世界。
彼は決して、世界を救いたかったわけではない。
ただ、自らの視界に入る「無駄な争い」を消し去りたかっただけだ。
その極限の冷徹さが、神を地下へと堕とし、世界を一つの完璧な箱庭へと作り変えてしまった。
「……本当に、静かで良い世界になった」
真なる世界の覇王は、満足げに薄く微笑み、完璧な温度の紅茶を口に運んだ。
もはやこの世界に、彼の理を覆すものは存在しない。永遠の静寂が、世界を優しく、そして残酷に包み込んでいた。
『――かくして白き槍は折れ、黒き盾は世界を覆い尽くした。』
遥か遠い未来のどこかで。あるいは、全く異なる星の片隅で。
古びた歴史書を捲る語り部の声が、重厚に響き渡る。
『これは、遥か古の時代。
異なる星より魂を飛ばされた一人の青年が、理不尽なる神に反抗し、その座を奪い取った【神話】である。
彼は万象の理を書き換え、争いのない完璧なる新世界を創り上げた。』
語り部はそこで一度言葉を切り、古の覇王の伝説に思いを馳せるように、静かに本を閉じた。
『――最強祝福を受けたのは勇者じゃなく俺でした。――』
理を超越した戦いの果てに刻まれた、美しくも残酷な神話の終焉。
その伝説は、次元を超えて永遠に語り継がれていく。
―― 完 ――




