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影の流れ星  作者: えりさかりお
9/19

03エリス_02

 突然ラルンドの心に憎しみの痛みが突き付けられた。

「アリアード…」

 ラルンドが手を伸ばす。

 愛し子達が一斉に気配の方を振り返った。

 フッ。

 軽い嘲笑と共にアリアードは姿を現した。

「惜しかったわね。もう少しで黄泉の世界へ行ける処だったのに」

 エリスが立ち上り、アリアードからラルンドを庇うように二人の間に割って入った。

「無駄だ」

 そう言うとアリアードは軽く腕を振った。

 スカエルスから奪った支配力により辺りの空間が歪められる。

 心とは裏腹に、愛し子達はラルンドの横たわっている守り神の丘から遠去かってしまった。

「いい格好だこと、ラルンド姉さま」

 そう言ってアリアードはラルンドに近寄った。

「愛し子達に守られて幸せそうね」

 足元に転がっている、先程民がラルンドに投げつけた短剣を拾い上げ、それを器用に手の上で転がしながら、更に近寄って行く。

「でも残念ね、あなたを守ってくれる者共が戻って来るまで、私は待ってあげない」

 そう言うと、ふふ、と小さく笑った。

「アリアード、民の為に、お母さまの希望を受け継いで」

「嫌よ。私は一つの力を守り続けるなんてしたくないわ。来る日も来る日も祈り続けるなんて」

「アリアード!」

 ラルンドは体を起こそうとしたが、先程までの過剰な出血の為、起き上がることが出来なかった。

 それでも必死にアリアードを見上げる。

「押しつけがましい目で見るのはお止め!私から自由を奪おうとしているくせに!はっきり言えばいいでしょう。自分が女王の座に縛られるのが嫌だから、私に替わりをさせようとしているのだと」

 アリアードの目は怒りに震えていた。

 ラルンドはアリアードの心に訴えた。

《民の希望を消さない為に、あなたの力が必要なのよ》

「やめろ!」

《お願い、国へ戻って》

「そんな目で私を見るなと言っている!」

 アリアードは激情にまかせてラルンドの瞳に短剣を突き立てた。

 アリアードの呪縛により、ただ成り行きを見守ることしか出来ない人々から悲鳴が上がる。

「ラルンド!」

 苦しい息で愛し子達が叫ぶ。

「カオスの、名において」

 体を締め付ける力に抗ってスカエルスが胸の前で掌を合わせると、柄の部分に星を象った剣が現れた。

 それと同時に愛し子達の呪縛が解かれた。

 空間を司る彼女の力が、アリアードによって掛けられた呪縛を断ち切ったのである。

 瞬時にウィンディギルが飛び、他の五人が守り神の丘へ走る。

 いくらも離れていない筈の場所がやけに遠く感じられた。

 と、そこには横になったままのラルンドに覆い被さるように、アリアードが短剣を突き付けている姿があった。

 状況がつかめず愛し子達の足が止まる。

 アリアードもラルンドも動かない。

 沈黙が辺りの色を吸い取ってしまったかのように景色がモノトーンに感じられた。

 あまりの静けさに、耳の奥に超音波が流れている錯覚に襲われる。

「ばかな…」

 アリアードの呻くようなつぶやきが聞こえた。

 モノトーンの世界にゆっくりと色が戻る。

 アリアードの短剣はラルンドの瞳の上、ほんの僅かの所で止まっていた。

 アリアードは短剣を握った手の上にもう一方の手を当てがい、渾身の力を込めて押し付けている。が、短剣はそれより下には落ちてはいかなかった。

「何故だ」

「その石はアイテールの名の元に贈られたもの。そのような力には屈せぬ」

 ラルンドの額には、瞳と同じ色をした石が飾られていた。

「解せぬ!何故そうまでしてラルンドを守るのだ!」

 アリアードは声の主に短剣を投げつけた。

 当たったかに思われた短剣は、ファリアスの手の中でぐにゃりと溶け、地に落ちた。

「もうおよしなさい、アリアード。前のように静かな日々を送りましょう」

 サンフィールが手を差しのべた。

 その手を払って言う。

「以前のような日々を送るために私から力を奪いたいのでしょう?」

 サンフィールは払われた手を抑え、唇を噛んだ。

「エーオースの翼にかけて」

 ウィンディギルの前に竜巻が起こった。

「いいの、ウィンディギル。ラルンドが一緒に吹き飛んでも」

 黄金色の剣を手にしたウィンディギルの動きが止まった。

 愛し子達の行動を見透かすように、薄笑いを浮かべている。

「素直に力を返せないのか」

 エリスがアリアードに向けて足を踏み出した。

 アリアードは目を眇めた。その目はエリスの劔に向けられている。

 自分の中に閉じ込めておく分には恐ろしくはないが、自分に向けられる闇の力は嫌悪感を伴う。

 過去に苛まれたおどろおどろしい生き物の気配が蘇る。

「寄るな!」

「アリアード、希望を受け継ぐことを何故拒むのだ」

 エリスは口調を和らげ尋ねる。

「あなたになど話したとて解るまい」

「では何故他の力を欲する」

「自由を手に入れるため」

「おまえの何処が自由でないと言うのだ」

 ウィンディギルが口を挟んだ。

「私の育てられた環境が解るか?感情を全て殺さなければならないのだぞ!自由に泣くことも、笑うことも、怒ることも出来ない。全てを取り上げられた生活の何処に自由があるというのだ!」

「それならば、私一人を憎みなさい」

 ラルンドが声を掛けた。

「飽き足らぬわ!私は全てが憎い。希望にすがる民も、希望を押し付ける家臣達も。ありとあらゆるもの全てが」

「では宮殿を出るだけで事足りたではないか。偽りを言うのはおやめ。おまえは自分より力を持った者が羨ましかったのだ。違うか?」

 エリスが言った。

「私の心は誰にも解らぬ!」

「あぁ、解らないとも。我が内に宿っているものは、おぞましき闇の力だ。光の中で育った者の心なぞ解るはずもない」

 エリスは闇の力を授けられたと同時に、親、兄弟からも恐れられ、孤独の日々を過ごしてきた。守り神の丘でラルンドの愛情に触れなければ、未だ孤独のまま恐怖を人々に植え付ける闇の女神として恐れられて居た筈である。

 エリスの言葉にアリアードは怯んだが、己を否定されることに納得がいかなかった。

「何故ラルンドは全てのものを手にして、私には何も与えられない。本来ならば姉さまが、希望を支配するべきではないか」

【おまえは“感情”を支配し、人々の心を黒く染めるもう一つの“感情”と戦う運命にある】

《エロースの予言は、アリアードのことを言っているのかしら》

 ラルンドは身体をひねり、上半身を起こした。塞がった筈の傷跡が引きつれ背中全体に痛みが疾る。

「エロースとアンタレスの血にかけて」

 左手で弧を描き剣を取り出したものの、痛みに耐えきれずすぐさま倒れてしまう。

 それでもラルンドは剣の刃を両手で支えると、アリアードに向かって差し上げた。

《もう一つの“感情”と戦うと言っても、刃を向けることだけが、戦いの方法ではないはず》

「何の模倣?」

「私は全てを手にしているわけではないわ。でも、確かに私は多くの力に守られている。だから、その力の源をあなたに贈るわ」

「ラルンド、はやまるな」

 エリスの口調が厳しくなる。

 剣を贈ることは即ち“支配力”=“美”を譲り渡すことである。

「エロースの名の元に」

 淡々とラルンドは続けた。

 アリアードの目が探るようにラルンドを睨みつける。

「私を、試すつもり」

 ラルンドは何も語らない。

「ふざけるな!希望の変わりに今度は民の為に祈れとでも言うつもりか!」

 ラルンドの行為にアリアードは明らかに動揺していた。

「剣を受け渡したとて、私を縛ることは叶わないわよ」

 ラルンドの差し上げている腕が震えだした。

 横たわったまま剣を持ち上げている姿勢は今のラルンドには酷である。

 だがその震えをアリアードは誤解した。

「本当は私に力を贈るのが恐ろしいのであろう」

 ラルンドの頭の中で景色が廻り始めた。意識が遠のく。

「アル、これが私に出来るあなたへの償い。…剣を受けとって」

 ラルンドの声はアリアードには届かなかった。

「剣など無くともおまえの力は既に我が内にある」

 アリアードは吐き捨てるように言うと、これ見よがしに力をラルンドに叩き付けた。

 心臓を直に掴まれたような鋭い痛みに、ラルンドの意識は限界に達した。

 体が硬直し、息が詰まる。

 意識が途切れるのと同時に剣が消えた。

 ラルンドの差し上げられていた腕が、糸の切れたマリオネットのそれのように、不自然に地に落ちる。

「許さぬぞ。アリアード」

 エリスが堪え切れず、アリアードに剣を向けた。

「許さぬとは、笑止。闇の力は既に取り戻しておろう。エリスの誓いは果たされているはず」

 以前、愛し子達は支配力を取り戻す為に、アリアードに対し復讐を誓った。

「誰の心を読んだかは知らぬが、間違えておるぞ」

 だが復讐など出来ないと言い張ったラルンドの心に負けて、エリスはアリアードに向けて闇の力を使わない為に、ラルンドの力を貸して欲しいと頼んだのであった。

 剣の先をアリアードの瞳の高さに合わせながら続ける。

「支配力を取り戻す際にアリアードに向けて闇の力を使わぬと言ったまで。ラルンドを苦しめるのであれば、もはや遠慮はいらぬ」

 その言葉が言い終わらないうちにエリスの剣から闇の手が伸び、獲物を捕らえる蛇のように、アリアードの首めがけて一直線に巻き付いた。

 おどろおどろしい声が辺りに響き渡る。

 叫び、嘲笑、嘲り、罵声、怒号あらゆる不快な声がアリアードの周りを埋め尽くしていく。

「民よ、今の内にこの場から立ち去るがよい。さもなくばいらぬ怪我をすることになるやも知れぬ」

 エリスの言葉を待たず、人々は蜘蛛の子を散らす勢いで四散した。

「闇の力を軽んじたばかりか、姉の心を解ろうともしない輩に、希望を受け継ぐ資格なぞ無い」

 エリスは剣に闇の力を送った。


 アリアードは足元に、ぐにゃりとした感触を覚えた。

 巻き付いた闇の手に首を締め付けられながらも視線を足元に落とす。と、自分が何かの肉を踏んでいるのに気付いた。

 その肉の表面が不自然に波打っていた。

 目がその動きを追って、知らずと足元の肉へと近付けられて行く。

 表面の所々に小さな穴が開いていた。

 そこから肉の上に白いものが這い出して来るのが見える。

 アリアードにはそれが何であるのか解った。が、感情がそれを否定した。

 目の錯覚と思い込もうとしている自分がいる。

 だが、アリアードの足に潰されたそれらが、千切れながらも左右に細かくからだを動かしていることで、感情が現実を認めた。

 それらが奇妙な動きをしながら、腐敗して柔らかく溶けた肉の内へ外へと蠢いている、何百という数の蛆であることを。

「う、うぁああああああ…」

 声と共に喉元まで胃液が逆流して来た。

 巻きついている闇の手を引き剥がし吐き気を堪える。

 目線を高くしたことで肉の元の形が何であったのかが見て取れた。

 縮れた服を僅かに纏った足が、不自然な向きに伸びていた。

 人であった。

 思わず飛び退こうとした拍子に、踵の下にあった腐った皮が、ずるりと肉から剥がれた。

 バランスを崩す。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。」

 ひきつった高い叫びが口を突く。

 足元にあった肉の感触が、冷たさを伴って腿の裏に張り付いていた。

 アリアードの体重によって潰された肉が、びちっ、びちっ、と嫌な音を立てて飛び散る。

 後ろ向きに尻餅を突いた格好になり、同時に掌に細い糸の絡まる感触があった。

 瞬時にそれが毛髪であることに気付き慌てて手を引くと、髪は元の皮膚へとは戻らず、表皮を伴ってアリアードの腕へと巻き付いて来た。

むしり取られた皮膚の裏側にも数匹の蛆がくっついていた。

 絡まった糸を強引に引きちぎるように、腕の髪を振り払う。

 自分の腕に巻き付いた髪から、足元の蛆の巣食った腐敗した肉が女性であったことが解る。

 この場から逃れようとする気持ちとは裏腹に、見てはいけないとは思いながらも残された肉—皮を剥がされた場所—に視線が引き寄せられて行く。

 何処かで見た感じの人であった。

 腕や首に付けられている装飾品に見覚えがある。

 目を塞ぎたいのだが、女が誰であるのかを確かめたい思いから、肩ごしに振り返る。

と、目から耳の後ろにかけてはぎ取られた女の皮膚の内側には、赤い湿った肉に群がる小指の先程の白い生きものが、びっしりと蠢いていた。

 思う存分肉を喰ったのか、ころころと太り、腐肉の中で奇妙なダンスを踊っている。

 同時にそれが誰であるのかが解った。

 王女としての証である冠が、額に付けられている。無論、王女の冠は女王の娘に贈られるもの…。

 アリアードの頬に、何かが這う感触があった。

 アリアードは、恐る恐る女のはぎ取られた箇所と同じ、左の目から耳にかけてを、自身で触れてみた。

 掌に湿った感触が伝わる。

 今まで気付かなかった腐臭が鼻を付いた。

 唾を飲み込もうとしたが、口の中に蛆が入り込んでいるような気がして、慌てて唾を吐き出す。

 吐き出された唾の色は赤かった。

 そして、その中には、おぞましく動く白いものが混じっていた。

 頭の中が空白になっていた。

 自分の動きが、まるで誰かに操られているように鈍く感じる。

 ゆっくりと掌を離し、視線の先に移動させると、自分の掌の中で、赤黒い肉片と、それにこびり付いている数匹の蛆が身をよじっていた。

 いやぁぁぁぁぁ…

 アリアードの意識が弾けた。


「エリス。アリアードに何をしたのだ」

 アリアードは先程から闇の声に囲まれた空間でうなされ続けていた。

 はじめ恐怖にかられた奇声を上げたかと思うと、バランスを崩し、その場に倒れ、次は何かに怯えるかのように大きく目を見開き、震えながら後ろ下方を振り返った。

 そして自分の顔を抑えた後、叫び声を上げ、今はただ、その場に座り込んでいる。

 その様子は、彼女が悪夢に取り憑かれているとしか思えなかった。

 焦点の合わない目で何も無い空間を見詰め、何かをつぶやき続けているのである。

 質問したウィンディギルに目を遣った後、静かに言う。

「何をした訳ではない。己の闇に喰われたのだ」

 視線を戻すと、闇に囚われたアリアードが泣いていた。

 あまりの答えに、愛し子達の息を飲む気配が伝わる。

 ラルンドを介抱していたサンフィールの顔色が変わった。

「ラルンド…」

 小さく呼びかけるその声に愛し子達がラルンドに目を遣る。

 気を失っている筈のラルンドの目から涙が溢れていた。

「アリアードに同調しているのか?」

 エリスがつぶやく。

「同調すると、ラルンドはどうなってしまうの?」

 不安げにサンフィールが問う。

 言葉に詰まったエリスに愛し子達は視線を送ったまま言葉を待った。

「ラルンドも、また、…アリアードの闇に喰われる」


『何を泣いているの?』

 やさしい声が届いた。

 何処か懐かしい。

 その声に答えようとしてアリアードは声を出した。

『あの、』

『なあに?』

 赤黒い血をこびりつかせた筈の手が、綺麗になっていた。

 足元には草が生えている。

《何で泣いていたんだろう》

《何かおぞましいものを見た筈だ》

『どうしたの?』

 声の主には覚えがあった。だが、姿は霧で覆われているように白くぼやけていた。

『あのね、汚い虫がいっぱいいたの』

『それで、怖くて泣いてしまったのね。でも、もう大丈夫よ』

 声の主に大丈夫と言われると、安心できた。

《汚い虫って何だったのだろう》

《私は何故子供なのだ》

 アリアードの中で二つの心が共存していた。

 あたかも、現実から逃避したい欲求が、子供の人格を創り出してしまったかのように。

『こちらへいらっしゃい』

 霧の中の声が告げる。

『どこへ行くの?』

『お家へ帰るのよ』

 白い人が手を差し延べた。

 素直に手を引かれて行くと、木々の間から大きな建物が建っているのが見えた。

 自然と足が止まる。

『どうしたの?』

 声はアリアードの足が止まったことに戸惑っているようだった。

『そっちには行きたくない』

『でも、お家に帰らないと…。お腹だって空いているでしょう?』

『でも、や!』

 アリアードは手を振りほどいた。

《何をやっているのだ、この私は》

 もう一人の人格が駄々をこねている自分を冷めた目で見ている。

『このままここに居ると、夜が来て真っ暗になってしまうのよ』

《そうだ、闇が来る前に何処かに逃げなくては、はやくその人についていくのだ》

 その声を聞き届けたのか、少女のアリアードは渋々声の主に従った。

 歩を重ねるにつれ、大きな建物の全景が見て取れた。

『お城?』

『あなたのお家よ』

 さらに歩いて行くと、門の所に男の人が二人、怖い顔をして立っていた。

『お帰りなさいませ。女王が先程からお待ちです』

 男の一人がアリアードに声を掛けた。

『わたしを?』

 アリアードの心の中に警戒心が芽生えた。

『どうしてもここに行くの?』

 女の人を見上げたが、女は答えない。

『さぁ、お急ぎください』

 男が急き立てた。

 二人は扉へと続く階段の下まで来ると足を止めた。

『さあ、お行きなさい』

 声は優しく告げた。霧は掛かっていない筈なのに、女の姿はぼんやりとしか見えない。

『ねぇ、どうしても?』

 階段を二歩登ったところで女の方を振り返る。

『…あなたが決めることよ』

 女は行けとは言わなかった。

『だったら嫌。わたしあなたと一緒にいる』

『それは、出来ないの』

『どうして?』

『どうしても。これは決まりなのよ』

 二人のやり取りに業を煮やした男が早口に捲し立てた。

『アリアード様。わがままもいい加減にしてください。ラルンド様もアリアード様を甘やかし過ぎては困ります』

 ムッとして声を荒げた男を睨み付ける。

《…アリアード…ラルンド…?》

 アリアードの心の中で何かがつかえていた。

 少女のアリアードが女の顔を振り返った。

 足元からゆっくりと霧が晴れて行く。

 そして、その霧が晴れるのと同じ速度で、アリアードも一人の人格に戻って行った。

「ラルンド姉さま」

 二人は至近距離で対峙していた。

「アリアード、あなたは闇に囚われてしまっているの。あの扉を開けなければ、ここからは出られないのよ」

 ラルンドが告げる。

「お前の手は借りぬ!」

 アリアードが睨み付けると、ザワッと、背後で何かが蠢く気配を感じた。

 背筋に悪寒が疾る。

「心を落ち着けなさい。この場所では心がそのまま形になってしまうの。あの門番もあなたが創り出したに過ぎないのよ」

 ラルンドの言葉に逆らって不安な心のまま振り返ると、蛭のような、表面がてかてかと光った物体が扉の周りに群がっていた。

「闇が光の扉を開けさせまいとしているのよ」

「嘘だ!あの扉の向こうには、お前達が押し付けようとしている世界があるだけだ!」

 ラルンドはどう説明すればアリアードが納得するのか解らなかった。かといってこのまま彼女をここに置き去りにするわけにはいかない。

 ラルンドの沈黙に闇がさらに濃くなった気がした。

「では、あなたが自分でお決めなさい」

 ラルンドは左手で弧を描くと剣を取り出した。

 そのままアリアードの横を通り抜け、扉の前に剣を立てかけると、扉の周りに群がっていた蛭のような生き物が、すぐさま剣にまとわりつきだした。

 ラルンドは単に扉の前に剣を立てかけたに過ぎなかったが、アリアードの目には剣に吸い寄せられるかのように、至るところから虫が集まって来るのが映っていた。

「つ、剣を退けろ。置いて行くな」

 ゆっくりと階段を降りてくるラルンドに訴える。

「剣がなければ扉の位置が掴めなくなるでしょうから」

 言葉の意味が理解できない不安と、ラルンドが何処かへ行こうとしている不安からアリアードは思わずラルンドの腕を掴んでいた。

「時が過ぎればそれだけ闇が濃くなってしまう。でも、アンタレスの血は闇には染まらない」

 ラルンドがアリアードを見詰める。

『どこへいくの?』

『ご用があって遠くへ行かなければならないのよ』

『すぐ、帰ってくる?』

『ご用が済んだらね』

 アリアードの心が分裂した。

『一人はこわいよぅ』

『大丈夫よ、あの扉の奥には皆がいるもの』

 ラルンドは少女の心になってしまったアリアードの手を優しく腕から外した。

 ゆっくりと歩き出す。

『早く帰ってきてね』

 その言葉は果たして届いたのか、幾らも歩かないうちに、ラルンドの姿は薄闇の中へ溶け込んで行った。

 急速に闇が押し寄せて来た。

 少女は階段に佇んだまま闇の中にラルンドの姿を探した。

 しかし、闇はその視線さえもその中に取り込んでしまう。

 気がつくと、自分の手足までが闇に溶け込み、方向感覚が麻痺していた。

《皆の所へ行かなければ》

 もう一人の人格が冷静に判断を下す。

 少女のアリアードがラルンドの言葉を思い出していた。『大丈夫よ、あの扉の奥には皆がいるもの』

 しかし、いくら目を凝らしてみても映るものは闇ばかりで、目を開いている感覚すら失ってしまっているようだった。

 どうしたら良いのか解らない心細さに、鼻の奥がじん、と熱くなり、涙が溢れてきた。

 手で涙を拭う。

 口を開いたらみっともないくらい大声で泣いてしまいそうだった。

 口をしっかり結んだまましゃくり上げる。と、その時赤い光が写った。

 手に付いた涙の粒の中にアンタレスの血の光が反射したのだ。

 少女のアリアードは後ろを振り返った。

 小さく光る赤い石が目に写る。

 それが何であるのか解らない。それでもその光は闇の中で唯一、アリアードの味方であることは解った。

 階段につまづきながらも必至で光に手を伸ばした。

《あたたかい…》

 —涙を流していた—

 少女のアリアードは剣に辿り着いた嬉しさのために、そして、もうひとりのアリアードは、自分に対するラルンドの優しさに。

 剣を胸に抱えて、扉を押す手に力を込める。

 隙間から光が差し込んだ。

 その先は無我夢中だった。力任せに体当たりする勢いで扉を押し開けた。

 目を射る真っ白な世界に、アリアードは闇から解放されたのを知った。


 ラルンドの睫毛が揺れた。

「ラルンド」

 エリスの声が聞こえる。

 気を失った時に詰まっていた息を吐き出すふっ、という声と共にラルンドは目覚めた。

「大丈夫か?」

「ええ」

 まだ起き上がれる程は覚醒していない。

「アリアードが目覚めたら、そっとしておいてあげて欲しいの」

 ラルンドの言葉に愛し子達は顔を見合わせた。

「アリアード自身に国に残るかどうか、決めさせてあげたいの。あの子はいつも意見を押し付けられて来たから」

「だが、」

 言いかけた言葉をウィンディギルは飲み込んだ。

 アリアードの泣いているような、笑っているとも取れる声が聞こえたからだ。

「お願い」

 もう一度ラルンドが言った。

「この一度限り、許しましょう」

 スカエルスはそう言いながら胸の前で掌を合わせると、取り出した剣をアリアードに向かって突き出した。

 フッ、とアリアードの姿が消える。

「宮殿の扉へ続く階段の下へ飛ばしました。これで良かったかしら」

 ラルンドに問いかける。

「ありがとう」


 目覚めたアリアードの目に階段が写った。宮殿の入口がその上に見て取れる。

 胸に何かをしっかりと抱えていたような気がしている。が、それが何であったのか思い出せない。

 あれほど忌まわしく思っていた宮殿が何故か懐かしく、暖かく感じられていた。

 階段を昇り正面の扉を前にして、アリアードは躊躇した。

 気恥ずかしいような、叱られた子供が玄関から家の中に入りずらいような、妙な感覚を味わったためである。

 そっと裏口へまわり中庭へと入ってみると、子供の頃からずっと見続けた庭は、広さこそ同じものの、様相はすっかり変わってしまっていた。

 心の奥にチクリと痛みが疾る。

《私が希望を継ぐことを放棄したせいでこうなってしまったの?》

 中庭に咲き乱れていた青紫色の花、いつも水を湛えていた噴水、あらゆる物が見る影もなく色褪せていた。

 庭を囲むようにして植えられている木々だけが無暗に枝を伸ばしている。そのことが返って、人の手が入っていないことを物語っていた。

 通路の方から話し声が聞こえた為慌てて身を石像の陰に隠したアリアードは、見覚えのある家臣がこちらに向かって歩いてくるのを目にした。

「女王の具合は芳しくないのか」

「あぁ、何時、意識を無くされてもおかしくない状態だ」

「まさかこんなことになろうとはな」

 二人は軽く溜息をついた。

 身を屈めたままアリアードは視線を地面に落とした。

 罪悪感と呼ぶ程ではないが、もやもやとした感情が沸き上がっていた。

「あぁ。ラルンド様がエロース神の教示など受けずに、そのまま成長されていればこんな事にはならなかったのに」

「済んだことは仕方無いさ。はやいとこアリアード様を連れてきてくれさえすれば、事は済む」

 家臣達は人気がないのをいいことに、声をひそめることもなく話しながら庭の前を通り過ぎて行った。

 息を殺しながら会話に耳をそばだてていたアリアードは、胸の奥に鈍い疼きを感じた。

《何だと、私を連れてくれば事は済むとはどう言う意味だ》

 アリアードに疑念が沸き起こった。

《お母さまの体よりも、希望を継ぐ者のことしか奴等は考えてはおらぬのか?》

 疑念は更に膨れ上がる。

《それでは仮に私が希望を継いだならば、お母さまはもう用済みと言うことなのか?》

 アリアードの思考は取り止めもなく広がって行った。

 小さい頃の家臣達の教育の仕方。

『この先女王となられるからには、この位のことは常識とされていなければ困ります』

 ラルンドとアリアードに対しての接し方の違い。

『アリアード様、女王となられるお方は、そのようなことはなさらなくて良いのです』

 目まぐるしく思考が巡る。

《私が跡継ぎを産めば、その子が私と同じ目に遭うのか》

 疑念は嫌悪に変わり、次第に憎悪となった。

《思うようにはさせぬぞ》

 小さく屈んでいた身を引き起こした。

《誰が意のままに操られるものか》

 既に去って行ってしまった二人を睨み付けるかのように、アリアードは宮殿の奥へと視線を向けた。

「私がこの国から希望を消してやる」

 心の中の思いが言葉となってアリアードの口から漏れた。


 この時、愛し子達は守り神の丘でアリアードの未来が明るいものであることを祈っていた。

 闇を抜けたアリアードが希望の光の大切さを分かってくれることを願っていた。


「全ての民に希望など単なるまやかしだと教えてやろう」

 愛し子達の祈りも虚しく、アリアードは新たなる魔を己の内に育て上げていた。

 きつく、爪が掌に突き刺さる程握り締められた手に視線を落とす。

 記憶の片隅に先程手にした剣の感触が残っていたが、それさえも消し去ってしまうほど、アリアードの怒りは強かった。

「愚かな民を守る力などなくなればいいのだ。未来のない希望に好きなだけしがみついていればいい」

 アリアードは拳から視線を空へと移すと、そのまま空に吸い込まれるように消えて行った。

 

「赤い凶星が北へ向かいました」

 つぶやくようにスカエルスが告げると、その落胆の様子から、愛し子達はアリアードがアンタレスを去ったことを知った。

 空間を司るスカエルスの力で強引に隠り世の扉をこじ開けたのだろう。

 ラルンドに視線が集まる。

「アリアード自身が決めたこと。平穏を好まず民の心を棄てた今、私の辿るべき道も決まりました」

 ラルンドは悲壮な決心を固めていた。

 ラルンドの行為を受け止めなかったアリアードに対し、今までにも増して非情にならざるを得なかったからである。

「私の気持ちが鈍らぬように、第三者の証人を立てて誓うわ」

 第三者の証人とは、この世界と他界とを結ぶことの出来る者を指す。

 カオスを守護神に持つ空間を支配するスカエルスや、ニュクスを守護神とする闇を支配するエリスもそれに含まれる。

 ラルンドの言葉にウォータリアスが剣を取り出した。

「ステュクス、あなたの流れを必要としています。どうか姿を現してください」

 ウォータリアスの言葉が終わるのと殆ど時を同じくして、黄泉に通じると言われている流れが目の前に出現した。

 地面であった筈の場所に突如として水が溢れ出したのである。

 対岸が霧で霞んで見えない程、黄泉の河は広い。その水の中から声が届いた。

【我が名を唱えし者よ、何用じゃ】

「あなたの住まう流れに、誓いを立てたいのです」

 ウォータリアスが答えた。

 僅かに流れている水面が波打ち、水の色に同化した人影が水底から浮上して来た。

【我が流れに誓いし時の覚悟は出来ていような】

 水の中から現れたにも関わらず、ステュクスの服は乾いていた。水に同化していた服が水面から浮き上がる毎に、本来の色に変わって行く。

 ステュクスの言葉に愛し子達はラルンドに視線を向けた。

【流れは時の象徴。季節は流れる、人も、自然も、思いすら流れて行く。ましてやステュクスの流れは黄泉へと通ずる。この意味が解るかね】

 ステュクスはラルンドに向かって問うた。「えぇ、よく解ります」

 ラルンドは一旦言葉を切り、軽く息を整えてから言葉を繋いだ。

「今、私は後戻りの利かない流れの中に身を置く覚悟をするために、あなたの流れを必要としているのです」

【良かろう、剣を立てて誓うがよい】

 ステュクスの言葉にエリスが流れに向かって歩きながら剣を引き抜いた。

「ニュクスの名において」

 事も無げに守護神の名を唱える。

 本来の力を宿したエリスの剣は、今までの神々しさに加えて、見る者の魂を闇に取り込む程の威圧感をも醸し出していた。

 黄泉へと続くと言われている流れがエリスの闇の力に共鳴し、水面が波打ち始めた。

「エリス」

 ラルンドはエリスの行為に剣を取りだそうとしていた左手を止め、声を詰まらせた。

「ラルンド、わたしも共に誓おう。地獄へ墜ちるならば、案内人がいた方が気が休まるというものだ」

 そう言って薄く笑うと、剣を流れの上へと翳す。

 エリスの剣の真下の水が暴風に煽られたかのようなざわめきを起こした。

「どうした、ラルンド。誓わぬのか?」

 固まってしまったラルンドにエリスが声を掛けた。

「あなたを、巻き込むわけにはいかないわ」

 ラルンドの声が震えている。

《解せぬ!何故そうまでしてラルンドを守るのだ!》

 先程アリアードが叫んだ言葉がラルンドの耳の奥に残っていた。

「巻き込まれるつもりはない。これは、わたしの意志だ」

 ラルンドの言葉を受けてエリスが答える。

「その優しさを、私が受ける訳にはいかないわ!」

 ラルンドらしからぬ語気を荒げた口調に愛し子達は息を呑んだ。

「私は、孤独になってしまったアリアードに刃を向けようとしているのだもの!」

 最後の方のセリフは肺の中にある空気を全て吐き出してしまうかのような勢いで語られた。

 ラルンドの息が乱れた。

「私が、エロースから力を頂いたお陰で、私ばかりが多くの人に助けてもらえるなんて、あまりにも不公平だわ!何故エロースはアリアードではなく私を選んだの!」

 誰にともない叫びが響いた。

 ラルンドの瞳から涙がこぼれていた。

 肩で息をしながらも少しずつ呼吸を整えて行く。

 一層大きく息を吐いた後、

「アリアード、何故私の剣を受けとってくれなかったの…」

 今までとは打って変わって、噛みしめるようにつぶやいた。

 事の成り行きを見守っていたステュクスが水に還り始めた。

【我が流れは神聖なるもの。己の意志に反する事を誓わせるわけにはいかぬ】

 その声を聞いてラルンドは慌てた。

「待ってください。私の誓いは自らの意志によるもの、決してあなたの聖なる流れを乱そうとしているのではありません」

 しかしステュクスはラルンドの声に耳を貸すことなく地面に吸い込まれて行った。

 ラルンドが水に触れるより速く乾いた地面が現れた。

 流れを掴んだかに思われたラルンドの手には赤茶けた土が握られているだけであった。

「すまぬ、ラルンド。よけいなことをしてしまったようだ」

 地面にしゃがみこんでしまったラルンドの背中にエリスが声を掛けた。

 その声に首を横に振る。

「私こそ申し訳ないことをしてしまったわ。あなたの誠意を踏みにじるようなことを言ってしまって、それに、ステュクスにも失礼な事をして、…ごめんなさい」

 ラルンドはエリスとウォータリアスの顔を交互に見やった。

「第三者の証人など必要ない。あなたは自分の守護すべきものが何であるか知っているのだから」

 ファリアスが声をかけた。

「エロースの意志を継ぐものであることに責任をお持ちなさい。ラルンドが選ばれたことに誤りはないのよ」

 サンフィールが続ける。

「ありがとう」

 そう言うとラルンドはアリアードが去って行った北の空へ視線を向けた。

 愛し子達もそれにつられるように視線を走らせた。

 まだ明るさを残している空に僅かに星が光り始めていた。

 闇が近付きつつある。

 アンタレスの希望に残された時間の短さを反映しているかのような空だった。


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