04一人きりの神話/エリス_01
闇の支配力を授けられたエリスがラルンドと出会うまでの物語
【一人きりの神話/エリス・ヴァハ】
闇がことさら濃く感じられる日だった。
国の決まり事として、夜、人々は休息する。
植物の息吹すら感じられぬ程、漆黒の闇が辺りを充たしていた。
静か過ぎる闇のせいで返って心が冴え、闇の支配力を持つエリス自身が、休息の心を失っていた。
エリスは先日アリアードに告げた『光の中で育った者の心など、知りよう筈もない』という自身がはいた言葉により、自分の過去を思い起こしていた。
《最初は他愛もないことだったような気がする。わたしは六人兄弟の四番目の子として、ごく普通に生活をしていた》
ある日、ほんの些細な言い争いが発端での兄弟喧嘩が、両親にまで飛火したのだ。
もう記憶の隅に置き忘れてしまった家族の面影を、エリスは手繰りよせていた。
《わたしは部外者だった。争っていたのは一番上の兄と、弟と妹だった。だが、突然、妹の玩具を壊したという理由で、両親にひどく叱られた。…あの夜も、今日のように濃い闇が漂っていた》
「わたしじゃない!」
エリスは抗議した。
しかし、両親はエリスの言うことに耳を貸そうとはせず、エリスが許しを乞うまで容赦しない勢いで叱りつけた。
エリスは良く出来た娘だった。
わがままも言わず、自分が今、何を成すべきかを考え無駄なく行動する。
普段は無口だが納得いかないことに対しては、はっきりとものを言う性格だった。
エリスは親の側から見れば、子供らしくない、考えていることが掴めない、言い換えれば生意気な子であった。
他の兄弟は、別段そのようなことは無かった。ごく普通にわがままも言う、兄弟喧嘩もする、親が怒れば素直に謝る。
だからエリスが素直に謝れば、事無きを得た筈なのだが、エリスにとってやっていない罪を被るなど、ましてや、それを第三者の親に謝るなど、到底納得いくものでは無かった。
もしも妹の物を壊したのならば、その時点で妹に謝るべきこと。妹がそれで納得いかずに親に告げるのならばともかく、濡れ衣もいいところだった。
エリスは言った。
「カリンと話しをさせて」
カリンというのは一番年下の、例の玩具を壊されたと親に言いつけた本人である。
「だめだ!お前は頭がいいから、カリンを言いくるめるに決っている」
「何故、わたしがやったと決めつける」
「じゃあ、カリンが嘘をついていると言うのか!」
エリスは頭から自分を疑ってかかる両親が許せなかった。
両親も、エリスの反抗的な言い方に、最早玩具のことなど関係ないように、兎に角エリスが折れるまで怒鳴り続けた。
「そんなに言うのなら神様に聞けば良い。どっちの言ってることが正しいのか」
売り言葉に買い言葉で、
「じゃあ、今からお前が守り神の丘へ行って、聞いて来るがいい!」
エリスは夜半に、家から追い出されてしまった。
この国では、夜は休息すべき時刻と決められていた。
エリスは親との対立の為に、決まり事を破るつもりはなかった。
その為、家からやや離れた処にある、祖父が生まれる前から生えていると聞かされた大木に登り、夜の休息の時刻が過ぎるのを待った。
朝になってから守り神の丘へ行こうと決めた為だ。
家ではまだ両親は怒っていた。
子供のくせに、という思いがある。
夜の闇を恐怖して、エリスが謝るであろうと思っていたのだが、エリスは謝るどころか、本当に家から離れてしまったのだ。
両親は玄関先で「怖いから中に入れて」と懇願するエリスを望んでいたのだ。
「本当に可愛げのない」
エリスを心配するよりも先に、忌々しさが心を支配していた。
僅か八歳の娘が夜半に外へ出たというのに、両親はエリスを探そうとはしなかった。
エリスは闇の中に身を置きながら、星空を見上げていた。
風が木の葉を揺らしている。
誰もが休息するにふさわしい、静かな心地よさであった。
この国では、決まり事を破った者は、神々の罰を受けると信じられていた。
休息の時刻を守らなかった者は、闇の女神ニュクスの責めを負うとされていたのだ。
事実、ニュクスに出会った者は、何かしらの代償を支払わされていた。
ある者は視力を失い、ある者は精神が破壊され、また、ある者は不慮の死を遂げるといったような…。
知らぬ間に闇が濃くなっていた。
匂うような黒い空間に星の光が砂粒のように撒かれている。
【そなた、闇が恐ろしくはないのか?】
何処からか声が聞こえた。
エリスは足元を見た。
誰かがこの闇の中を通りがかったのかと思ったからである。
【何処を見ておる。私はここじゃ。質問に答えよ】
エリスは不信に思いながらも、声の聞こえた斜め上方に目を遣った。
そこには、星の光を吸収しているような闇の空間が見て取れた。
声はそこから聞こえてくる。
「闇は休息をもたらすもの。恐ろしくはありません」
エリスは素直に思ったままを告げた。
すると、その答えに満足したのか、闇が形を変え一人の女性の姿を浮かび上がらせた。
金色の髪と金色の目を持った大きな人だった。
闇に顔だけが浮かんでいるように、木の上にいるエリスより、更に高い処にその人の顔はあった。
胸から下は闇に溶け込んでいる。
「…ニュクス?」
心の中での問が言葉となって出ていた。
「さよう」
ニュクスは一呼吸置くと、「何故、そなたはこのような所におるのじゃ」と尋ねた。
エリスはこれまでの事情を手短に語った。
そして、朝になってから守り神の像の丘へ行く為にここで休息していると付け加えた。
「なるほど、では私がそなたに力を貸してやろう」
そう言うと女神は剣を取り出した。
黒く大きな剣だった。
「これは偽りを見極めることの出来る剣だ」
剣がエリスの前の空間へと降りてきた。
「私は嘘をついてはいません」
エリスは剣に触れるのを躊躇った。
「これはそなたの心を試すものではない。見る者の心を写す剣だ。心に闇を持っていれば闇を、光を持っていれば闇の中に光を見ることが出来る」
わかるか?
言葉にしないながらも、ニュクスはエリスに問うた。
エリスは幼いながらも賢い子だった。おぼろげにニュクスの言いたいことが解った。
「…でも、つきたくない嘘をつかなければならない時もあります」
妹のことを言っている。きっとカリンは親に怒られるのが怖くてわたしのせいにしたのだ。きちんと話してくれれば、庇ってあげられたのに…。
「しかし嘘は嘘。それ故に、心が闇に染まり闇から出た嘘なのか、光を他人に与える為につかれた嘘なのかを見極める必要がある」
エリスは躊躇いがちに剣に手を伸ばした。
「その剣はニュクスの力を継ぐ者の証。そなたに譲ろう」
その言葉にハッ、として手を引いた。
「いりません。わたしは人の心を見ようとは思いません」
「それは違うぞ、エリス。人の心は見極めようとして見極められるものではない。人を裁くのは闇の力。そなたの意思ではない。そなたは、闇の力を解放する術を身に付けたに過ぎぬ」
ニュクスは言葉がエリスの心に染み込むのを待って続けた。
「しまっておくがよい。闇の剣は見る者の心を写す。人は心に少なからず闇を棲まわせておる。剣による恐怖がそのままエリス、そなたへの恐怖となってしまうやも知れぬ」
エリスは剣に魅せられていた。
闇の力はエリスに恐怖を持たらす事は無かった。それ故に、エリスは過ちを犯してしまったのである。
エリスは剣に触れた。
「闇の力を解放したい時は、我が名にかけて剣を抜くが良い。力は応じてくれよう」
ニュクスは現れた時と同様に形を変え、闇に紛れて行った。
エリスは剣を胸に抱えたまま夜明けを待ち、夜明けの光と共に守り神の丘へと走った。
エリスの身の丈からすればかなり大きな剣ではあったが、不思議と重さは感じられなかった。
守り神の丘まではさほど遠い距離ではない。
子供の足でも、走れば家族が起き出す頃には、家に帰り着く筈である。
気の早い鳥が時折囀る他は、自分の足音以外何も聴こえてはこなかった。
砂利を踏む、ザッ、ザッ、という単調な音に合わせて、少しずつ見慣れた森が近付いてくる。
森にかかった白い靄が、ゆっくりと北へ流れていた。
背の高い樹に光を遮られた森の中は、未だ夜の空気が漂っているようであった。
昨夜のことが夢であったのではないかと思えてくる。
森を抜けると小高い丘の上に、朝の光を浴びる格好で、守り神の像が見えた。
視界が一気に開け、エリスは小走りで丘を目指す。
赤土の手前まで来た処で地面に膝をつき、神の答えを待った。
が、しかし、神は何も答えてはくれない。
もっと近付かなければ自分の存在に気付いて貰えないのかと思ったが、エリスは躊躇った。
守り神の丘は神聖な場所である。
神と交信出来る聖域として、人々が意味無く立ち入る事を許されない場所であった。
その為、像の回りには赤土が敷かれてある。
赤は血を意味する。無闇に汚してはならない色であるのだ。
像の側へ行くには、守り神の血を踏むことになる。
エリスはニュクスから授かった剣が答えを示してくれると信じ、守り神の丘を後にした。
家に帰り着くと両親は娘の無事の帰りを喜ぶことなく、自分達がどんな思いをしたかを、とくとくとエリスに語った。
「まったく、なんて子だよ。夜中に家を出ていっちまうなんて」
エリスは心の中で反抗した。
《自分達が追い出したんじゃないか…》
だがエリスはそれを口には出さなかった。口答えは更成る怒りを煽ると知っていたから。
両親は一通りの小言を言ってエリスを解放しようとしたが、朝早くからの口論にカリンが目を覚ましたことに因り、事態は悪化した。
エリスの姿を見るなり、カリンが恐怖の声を発したからである。
エリスにではなく、エリスの携えている剣に対してだ。
子供の敏感な感覚が、剣からの闇を感じ取ったのだ。
それにより、両親はようやくエリスの剣に気付いた。
「どっから盗んで来た!」
「子供のくせにそんな恐ろしいことをするなんて!」
両親は異常な程興奮していた。まるで何か喋っていなければいけないと思い込んでいるかのように。
少なからずエリスの剣に恐怖していたのだ。
エリスは何から何まで、悪いことをしていると決めつける親に嫌気がさしていた。
「ニュクスからもらった」
抑揚のない声で、短く告げたエリスに
「ニュクスに出会って無事で済む筈がない。見え透いた嘘はつくな」
間髪を入れずに父親が叱る。
「嘘だと思うなら女神様の名にかけて剣を抜いて見せてもいい」
エリスの言葉に乗って、剣を抜けと言ったならば、抜いて見せるつもりになった。
心の半分では、女神様の力を無闇に使ってはいけないと思ってはいるのだが、もう一方では『抜け』と言ってしまえ、と思う自分がいる。
頭からエリスを疑っている両親は、抜けるものなら抜いてみろと言わんばかりに、「やってごらん」と言ってしまったのであった。
エリスは剣の柄に手を掛けた。
《初めて剣を抜いたのはあの時だった。まだわたしには、闇の力が何であるのかさえ解ってはいなかったのだ》
すっ、と横に腕を引くと、黒い鉄の塊が星の光を反射させた。
夜の闇より更に深い漆黒の剣。
いくら研いでもそれは銀色の鋼にはならなかった。鉄本来の色でさえ、闇の力に吸収されてしまっているかのように。
エリスは剣を鞘へ納めると、心の中で剣に言った。
《本来の姿に戻るが良い》
エリスの手の中で水の中に沈むように、剣は闇に沈んで消えた。
剣は支配力の象徴にすぎない。
今では剣を出さなくとも、闇の力は或る程度応えてくれる。
《ニュクスはわたしに剣を渡す時期を間違えたのだ。今ならば、決してあのような間違いは犯さなかったものを…》
一瞬躊躇ったものの、エリスは剣の柄に手を掛けた。
「ニュクスの名にかけて、剣よ、真実を語っておくれ」
エリスは剣を引き抜いた。
ざわっ。
軽いどよめきが起こったようにエリスには聞こえた。
父親が口をあけたまま白目をむいていた。
兄弟達が何かつぶやきながら、一箇所に固まっている。
エリスには見えない何かが見えているのだ。
「いやー!」
家の中に叫び声が響いた。
カリンが壁に背をあずけ、何かに怯えている。
「カリン」
エリスが声をかけると、泣きながら天井に向かって謝りだした。
母親が尻餅を突いたまま、何かから逃げるように、家の中を這いずり回ってる。
ようやくエリスは、これは剣の力に依るものであることに気付いた。
慌てて剣を鞘に納める。
辺りの喧噪が止んだ。
エリスが心配そうに、放心している母親に声を掛けた。
「大丈夫?」
その声に、目を血走らせ肩で息をしていた彼女が正気に戻った。
「何が大丈夫だ!ケダモノ!闇に魂を売っておいて!」
その言葉に一瞬目の前が暗くなる。
「私は、そんなこと…」
「寄るな、バケモノ!」
母親は手近にあった置物をエリスに投げつけた。
「どうしてそんな、酷いことを言うの!」
—闇に魂を売る—
それは自分の良心と引き換えに、黒い力を手に入れることを指す。
黒い力を使い目的を果たした後は、冥府に棲むエキドナの下僕として、永遠に死人の肉を喰らう生活を強いられると言われていた。
二人の口論する声に、気を失っていた父親が回復した。
「父さん」
声を掛けたエリスを見て、彼は後ずさりした。泣き笑いのような顔でエリスを見詰めている。
「ね、私は嘘なんかついてないでしょう」
エリスは両親に認めてもらおうと声を柔らげた。
「あぁあぁ、確かにそれはニュクスの剣だよ。お前は女神に気に入られたんだ。もうこの家に居る必要はないよ。好きな処へお行き」
「どうして、どうしてそうなるの」
「母さん怒らしてはいけないよ。エリスは神になったんだから」
父親は八歳の娘にあらたまって言った。
「どうぞ、お好きな処へ行ってください。ほら、お前達もお願いしなさい」
父親に言われた子供達は、訳がわからないながらも父親の模倣をした。
「どうぞ、お好きな処へ行ってください」
「私は何処へも行く気なんてないわ!!!!!!」
「そんな、恐れ多い。神様にこんなあばら家は似合いません」
「やめてよ父さん。私は神様なんかじゃないわ」
エリスは必死で抗議した。
他人のように振舞う父親。それを模倣る兄弟。
そして、とっとと出て行けと言わんばかりの母親。
真実を訴えようとした代償は、八歳のエリスにはあまりにも大きかった。
真実を認めてもらう替わりに、家族を失ってしまったのだから。
《闇の力を手にしてから、行き場のないわたしはエキドナの棲む洞窟に赴いたことがあった。闇に魂を売った者が、本当に死人の肉を喰らいながら、永遠の時を過ごさねばならないのかを確かめる為に。そこで、わたしは闇の本質を知ることになったのだ。だが、それはまだ先の話だ》
エリスは闇の中に、記憶の隅へ押しやってしまった母親の面影を探した。
しかし、おぼろに浮かんだ顔は、ニュクスのようでもあり、エキドナのようでもあり、また、ラルンドのようでもあった。
エリスは視線を掌に移した。
何時の間にか剣が握られている。
《あの時は必死だったな》
エリスの剣は、他の支配力を持つ者の証とは異なり、完全に消えることはない。
暫くすると、闇の中から浮き上がるように、エリスの手に納まるのだ。
《闇を恐れぬ者の過ちは、闇を恐怖する者の精神状態が解らぬことだ。わたしは淡い期待を抱いていたのだ。剣を消すことが出来れば、また、元のような家族に戻れると》
エリスは家に留まった。
兄弟と一緒にあてがわれていた部屋は、エリス一人のものとなった。
食事も一緒にさせてはもらえない。ましてや家事などは、一切手伝わせてもらえなくなった。
今までしていた水汲みや洗濯は、まだ幼いカリンの仕事になった。
エリスがそれを見兼ねて手を差し出せば、両親がそれを止め、手伝わせた罰としてカリンのことを叱る。
エリスには理解出来なかった。
剣一本で、こうも人の心は変わるものなのか。
あの時彼等は、一体何に恐怖したのだろうか。
兄弟に聞いても答えてはくれなかった。丁寧にお辞儀をして、そそくさとその場から逃げてしまうのだ。
エリスは剣を隠そうとした。
『しまっておくがよい。闇の剣は見る者の心を写す。人は心に少なからず闇を棲まわせておる。剣による恐怖がそのままエリス、そなたへの恐怖となってしまうやも知れぬ』
女神の言葉に従い剣を仕舞えば、元のような生活に戻れると思ったのだ。
だが、一度隠す必要はないと思ってしまった為か、いくらニュクスの名にかけて消えて欲しいと願っても、剣は消えてはくれなかった。
来る日も来る日も、エリスはそれだけを日課にして終日を過ごした。
だが、人の目にはそうは映らない。
毎日熱心に何かを剣に願っている姿は、新たなる闇を作り出す儀式であるかのように見えたのである。
遂に、エリスが家を出る決心をしなければならない出来事が起きた。
エリスの行いに恐怖した母親が、剣を湖の底へ捨ててしまおうと考えたのだ。
ある晩、彼女は眠っているエリスに近付き、傍らに置いてある剣を取り上げようとした。
しかし、剣は岩のように重く、とても一人の力では奪えそうになかった。
仕方なく彼女は夫に計画を持ちかけた。
だが信心深い夫は、女神の怒りに触れるようなことは止めろと彼女を諌めた。
夫はエリスの不興を買うことを恐れ、家に帰らないことも多くなっていた。
自分を見放すような態度の夫、剣が作り出す闇の恐怖。彼女の精神は狂い始めていたのだろう。
夫がだめならばと、彼女は子供たちに手伝わせることにした。
夫が夜になっても帰らなかった日、エリスが眠りについたのを見計らって子供たちを呼びつけた。
「いいかい、お前達。この剣を湖に捨てておいで。誰にも見られないように気をつけるんだよ。誰かに会っても、余計なことは喋るんじゃないよ」
子供たちは嫌がったが、幼い子は母に怒られることの方が、兄弟の持ち物を奪うことよりも、はるかに怖いのだ。
玄関に仁王立ちで「ぐずぐずするんじゃない」と怒りをあらわにする。
渋々、彼等は重たい剣を引きずりながら、暗い道を湖へと向かった。
母親の姿が見えなくなるや否や、早々に次男は音を上げた。
「重いよぉ。こんな調子で夜明けまでに湖へ着くの?」
次男が長兄に問う。
「知らないよ。いいから黙って引っ張れ」
末っ子のカリンを除く兄弟たちは、剣に太い縄を括りつけ、その縄を一列に並びながら引っ張っている。
末弟が先頭に立ち、心許ない蝋燭の灯篭を提げていた。
エリスが一人で持ち運べる剣を四人がかりで引っ張っているのだが、兄弟たちの縄を持つ手に痣が出来る程の重さが剣にはあった。
その為遅々として進まない。
家から少し離れた処にある大木の脇を通りすぎたとき、雲が空を覆い星々を隠した為に、闇が深さを増した。
心無しか灯篭の明りも弱くなり、風も無いのに瞬きをし始めた。
もとより渋々言いつけに従ったのだ。いくら四人でいるからと言っても夜の闇は怖い。早く役目を終えて家に帰りたいと思うのは当然で、長兄が「がんばれ」と声を掛ける。
だが、その声に答えたのは弟たちでは無かった。
【我が剣をどうしようというのだ】
暗闇から響く声に、兄弟は剣を引く力を弱めた。
辺りに目を凝らす。
だが、暗闇の中、何の気配も感じられない。
子供たちは気のせいだったのかと思い、再び剣を引き始める。
だが、いくらも進まぬうちに【我が剣をどうしようというのだ】と再び問う声が後方から聞こえた。
この国の人々は『安息の掟を破ると闇の女神ニュクスの罰を受ける』と小さい頃から聞かされている。
一番後ろを歩いていた三男が、口をパクパクさせたまま、絶句している。
【ほぅ、この口は喋る意思を持たぬのか】
ニュクスはそこらにあった石を、三男の口へと押し入れた。
次に、次男に聞いた。
【何故、質問に答えない】
次男は、ただ泣くばかりで何も出来なかった。
【これはこれは、涙が質問の答えとは】
ニュクスは草をむしりとり、次男の目へと押し入れた。
次に、長兄に聞いた。
【何故、質問に答えない】
長兄は慌てて、母親の言いつけにより、剣を湖に捨てに行くつもりだったと答えた。
【おまえは、私の話をちゃんと聞いていないようだ】
ニュクスは土を掴むと、長兄の両耳へと押し入れた。
最後に一番年下の弟に聞いた。
【何故、質問に答えない】
弟は思ったままを告げた。
「怒られるのが怖いから」
【何故怒られると思ったのだ】
「お姉さんの物を取ったから。夜は家の中に居なくちゃいけないから。人にこのことを喋ったらいけないって母さんに言われたから」
弟は目をつぶったまま、とにかく思ったことを話さなければ、殺されてしまうと思い、必死にニュクスの質問に答えた。
フフッ、と、軽い笑いが漏れた。
【お前は私が怖いのか?】
弟は一瞬躊躇ったが、思ったままを告げた。
「怖いです」
【お前は正直だ。だが、人に怒られることを恐れるあまり悪いことに手を貸した。それは、解っているな?】
「はい」
答えてから、弟は女神の口調が優しいものに変わったことで、恐る恐る目を開けた。
金色の髪を持つ、猫のような目をした女の人が闇の中に浮かび上がって見えた。
初めて見る神の姿に、弟は目を奪われた。
【お前は弱さの代償に、この先、三人の兄の世話をしなくてはいけない。どんなに辛くとも、逃げてはならない。よいな】
弟は女神の言った意味が理解出来なかった。兄たちはいつも、自分の世話を焼いてくれていたのだ。だが、悪いことをした罰を受けなければいけないことは理解出来た。
「解りました」
そう答えた弟に、ニュクスは目を細めると、闇へと身を溶かして行った。
助かった、という思いは無かった。
女神が消えた暗闇を、ただ、ぼうっと見詰めていた。
辺りの静寂に、うめき声が混じっていることに気付いたのは、暫く過ってからのことだった。
弟は正気に返って、星明りの元、兄たちの姿を探した。
兄たちはすぐ側で、黒い小山のように蹲っていた。
「兄さん、大丈夫?」
そう声を掛け、兄たちの顔をのぞき込んだ弟は、我が目を疑った。
顔が異様に膨れていたのだ。
一番上の兄の耳に土が詰まっていた。
弟は慌てて土を掻き出した。
二番目の兄の目には草がはさまっていた。
弟は慎重に草を抜き取った。
三番目の兄の口には石がはめ込めれていた。
弟は少しづつ削り取るようにして、石を外した。
「兄さん!」
声を掛けても、兄たちはただそこに座りこけているだけであった。
《これが、ニュクスの言った事なのかな》
弟は道端に置き去りにされている、エリスの剣に目を止めた。
《悪いことをしたんだから、これはちゃんとエリスに返して謝らなければいけない》
そう思って剣に手をかけると、今まで四人がかりで引きずっていた筈の剣が、いとも簡単に持ち上がった。
弟は剣を担ぐと、呆然としたままの兄たちを引き連れて、家へと戻って行った。
家では母親が待っていた。
扉を叩いた弟に「ご苦労だったわね」と、労いの声を掛けたのだが、次の瞬間、肩に担がれている剣に目を止めて猛然と怒り出した。
「何で捨ててこなかったの!」
そう言った母親に弟は「捨てたいのならば、自分で捨てて」と返事をすると、エリスの眠る部屋へと入って行った。
弟はエリスの頭の近くへ剣を置いてから「ごめんなさい」と付け加えた。
玄関先で立ったままの兄たちに母親の怒りが移った。
「何だってあんた達は、揃って私の言いつけに背いたんだい」
一番上の兄にはその声は伝わらなかった。
二番目の兄は彼女の怒っている顔が見えなかった。
三番目の兄は答える声が出せなかった。
エリスが目覚めた時、傍らに一番下の弟が座って居るのが目に入った。
エリスが剣を授かってからというもの、家人は誰一人としてエリスに声を掛けるどころか、近寄りもしなかったのに。
「サガ、私に何か用なの?」
エリスは出来るだけ優しい声で尋ねた。
五歳の弟はおずおずと、昨夜の出来事を語り始めた。
語り終えたとき、エリスに怒られると思っていたサガは「話してくれてありがとう」と言ったエリスの言葉に耳を疑った。
「今、兄さん達はどうしている?」
「父さんと一緒に女神様の泉へ行った」
朝早く帰宅した父親は変わり果てた子供たちの姿に絶句した。
サガの説明により大まかに何があったのか理解したのだろう。
母親の言い訳に耳を貸さず、大慌てで荷馬車に子供を乗せ泉へと出発した。
この国では、水の女神が住んでいる泉で傷口を洗うと、傷が癒えると信じられていた。
事実、過去に傷の直った例は幾つもあった。しかし、ニュクスの罰を受けた兄達の傷が癒される見込みは薄かった。
そう、と言ったきり、落胆してしまっているエリスに弟は告げた。
「僕は姉さんのこと嫌いじゃないけど、姉さんがいると、母さんが怖がるんだ。いけない事を平気でしてしまうんだ。もっともっとひどいことをするかも知れない」
サガの脳裏に母親の言った言葉が過った。
兄たちの変わり果てた姿を見て言った言葉。
『あの子が厄を連れ込んだんだ。あんな子はとっとと追い出した方がいい。でなきゃ、次はもっと酷い目に遭っちまうよ』
その後、父にだけ聞こえるように声を落として付け加えた。
『この家に居られないように、商人にでも売り飛ばした方が子供たちの為だよ』
偶然耳にした母の言葉を、サガはエリスに伝えることは出来なかった。
黙ってしまったサガにエリスは声を掛けた。
「解ったよ、サガ。私は居ない方がいいんだね」
エリスにとって、それは辛い言葉だった。
まだ自分自身、親に甘えたい歳なのだ。
だが既に、親は親でなくなっているのも事実だ。
「ごめんなさい」サガがポツリとこぼす。
「サガのせいじゃない。サガが謝ることなんて無いんだよ」
エリスは出来る限り明るく、姉として声を掛けた。
エリスは家を出る決心を固めた。
家に戻った兄たちの痛ましい姿を見るに耐えなかったことが、家を出る時期を早めることにつながった。
やはり女神の泉は、兄たちの傷を癒すことは無かった。
その傷の原因はお前だと言う視線を受けながら、エリスはもうこの家に居場所がないことを実感したのだ。
日をおかずエリスは住み慣れた家を後にした。
誰に告げることもなく、黙って家を出た。
辺りは普段と変わらず、隣の敷地で放牧されている馬が、朝靄の中のんびりと草を食んでいた。
家から少し離れた大きな木の根元まで来たとき、エリスは剣を引き抜いた。
ニュクスと出会ったこの木を、思いっきり切り付けたい衝動に駆られたのだ。
何故自分がこんな目に遭うのか、納得出来るものではない。その苛立ちがエリスに剣を引き抜かせたのだ。
闇より遥かに深い漆黒の剣。
まさに切り付けようとしたその瞬間、サガの『ごめんなさい』と言う声がエリスの耳に届いた。
振り上げた腕が止まる。
エリスを見送ろうと後を追いかけて来たサガは、剣を引き抜いたエリスを見て、慌てて物陰に身を隠した。そして、エリスが大木を切り付けようとした瞬間、思わず心の中でエリスに謝ったのだ。その叫びがエリスに届いたのである。
エリスは辺りを見回したが、朝靄に溶けた景色の中にサガの姿を見つけ出すことは出来なかった。
《空耳か》
エリスは剣を中空に翳した。
「ニュクスの名にかけて、我が兄たちに対する女神の怒りが和らぎますように」
エリスが兄たちのことを気遣ったのはそれが最後だった。
エリスが剣に願うと同時に、いくら泉の水を浴びても何の変化も表れなかった兄たちに変化が起きた。
一番上の兄は、薄い板を挟んで会話をしている程度に人の声が聞こえるようになった。
二番目の兄は、濃い色ガラスを通して見ている程度に視力が回復した。
三番目の兄は、布を口に挟んだまま喋る程度には、声が出せるようになった。
だが、誰もエリスに感謝などしなかった。
家に戻ったサガが兄たちの症状を見て、エリスが剣に祈ってくれたお陰だと両親に言っても相手にされなかった。
エリスが家を出た為、厄も出て行ったと信じ、少しでも傷が癒えたのは泉の精のお陰だと感謝している。
「本当だよ」
そう言う弟に、兄たちも取り合ってはくれなかった。
剣に対する恐怖が拭いきれていないのだ。
エリスの肩を持った発言をした弟に、家族の態度は一変した。
兄たちは、一緒にいたのに弟だけ無事に済んだのは、きっとニュクスに取り入ったのだろうと勝手に決めつけ、要領のいい奴だと非難した。
母親は、エリスに肩を持つことは厄を招くと信じ、サガに対しエリスがいかに悪い子だったかを語ったが、それをサガが否定した為、今度はサガ本人をも拒絶した。
父も妹もサガを庇ってはくれなかった。
だが、そんな家族に対して、これもニュクスの与えた罰なのだろうと受け入れた。
【お前は弱さの代償に、この先、三人の兄の世話をしなくてはいけない。どんなに辛くとも、逃げてはならない。よいな】
女神の言葉に、サガは「解りました」と返事をしたのだから。
逃げ出すわけにはいかなかった。
いつのまにかエリスは浅い眠りに落ちていた。
夢の中で過去の記憶がエリスに語りかける。
『恐怖と死をもたらす闇の女神』
《わたしの事を言っているのか?》
『全ての災いの元凶』
《おまえは何者だ。何故わたしに近付くのだ》
『全ての和を破壊せし者』
悪夢がエリスに囁きかける。
ぱさっ。
エリスの顔の上に髪がかかった。
夢の中のエリスがゆっくりと目を開けると、そこには女の人がいた。
エリスに被さるように、上から顔をのぞき込んでいる。
《ニュクス?エキドナ?》
確かに見覚えのある顔だが、それが誰なのか思い出せない。
『解らないのか?わたしはお前だよ」
そう言うと、女はエリスの左の目玉をすすった。
唇が皮膚を引っ張る感触が伝わる。しかし、不思議と痛みは無い。
女の喉が上下した。
球体が女の喉を通過する。
《やめろ!》
エリスは叫んだ。
しかし声にはならない。
エリスの左の目には、ぱっくりと口を広げた闇が写っていた。
エリスの目玉を喰った女の顔が、ぐちゅぐちゅと音を立てて変化し始めた。
なんと、女の左目が紛れもなくエリス自身のものへと変わったのである。
血を絡めた口から、赤い舌がちろりと這い出し、にっと開かれた唇を舐めた。
夢の中のエリスは声を出せないどころか瞬きすら出来なかった。
女の口が大きく開かれ、ゆっくりと降りて来ると、今度は右の目に被さった。
眼球を舐める舌がなま暖かさを伴っている。
『エリス、これがお前の本来棲むべき場所だ。おまえの代わりはわたしが務めよう。安心して闇の中で暮らすがよい』
女は口を窄め、舌で眼球を包み込むようにしてすすり上げた。
先程とは違い、ゆっくりと吸い上げる力により、プチッ、プチッ、と神経が切断されて行く音が聞こえた。
痛みが感じられない分、引きちぎられる感覚が鮮明に伝わる。
エリスの目は赤黒い口内を写していた。
一本、また一本と神経が切断されていく。
最後の一本が引き千切られた瞬間、強烈な痛みがエリスを襲った。
「うあぁぁぁ!」
エリスは自分の声によって目覚めた。
目覚めた筈だ。だが、夢と現実の区別がつかないでいる。
自分の瞳に写る闇が女が言った闇の中なのか、現実の闇夜の暗さなのか。
光量が乏しい為、輪郭のわからない手で、目蓋の下の球体を探った。
夢の中で喰われた眼球はちゃんとある。
「いつのまにか眠っていたようだ」とひとりごちる。
硬直している身体を揉みほぐすように触りながら、ほぅ、と息を吐き呼吸を整えると、エリスは剣を引き抜いた。
「ニュクスの名に於て」
ずっしりとした重みが、エリスを夢から現実へと引き戻して行く。
《嫌な夢を見た。エキドナの洞窟で見た情景が、あのような夢となってわたしを襲うとは…》
辺りは未だ静かな闇に閉ざされている。
夜明けにはまだ遠い。
エリスは過去を回想し始めた。




