04一人きりの神話/エリス_02
エリスは行く当てもなく、放浪の生活を送ることになった。
生活の足しになるような物は何一つ持ってきてはいない。
生き延びる自信はあった。
幸い、この国の自然は年間を通して色々な食べ物を授けてくれる。
木の実や草に到るまで、食べる物に関しては杞憂することは無かった。
エリスに必要な物は、孤独と好奇の目に耐え得る精神力だけだった。
放浪生活の中、誕生日を迎え、それなりにやり過ごすことを覚えていった。
だが、それすらもエリスには不用のものとなる。
様々な出来事が、エリスに孤高と民に対しての蔑みの目を与えることになるからだ。
最初に出会った男はエリスにとても優しかった。
街で商いをしているため年端のいかないエリスでも雑用をこなすのに役立つと、快く迎え入れてくれた。
だが、何日かして、その優しさは下心から来るものであった事に気付かされる。
夜、床に就いたエリスに男が襲いかかったのだ。
抵抗するにも、あまりにも力の差がありすぎた。
むやみに足をばたつかせ、爪を立てるエリスを余裕で組み敷く。
男の脛を蹴りつけた時、それまで薄ら笑いを浮かべていた顔がしかめられた。
男は枕元に置かれていたエリスの剣を取って脅し付けた。
「おとなしくしていないと、綺麗な顔に傷が付いてしまうよ。なぁに、怖がることはないよ」
エリスにのしかかったまま、男は手にした剣の見事さに目を奪われた。
素早く奸計を巡らす。
《やりまくった後で殺すか。これだけの剣だ。こいつを売り飛ばせば暫く遊んで暮らせるぜ》
剣を手にしていることで、男の心の中がエリスに伝わった。
「その剣はあなたを不幸にする。おとなしくわたしに返しなさい」
エリスの言葉使いに男がキレた。
「ガキのくせに、生意気な口きくんじゃねぇよ」
愚かにも、男は剣を引抜くと、エリスの身につけている布を切り裂いた。
白い肌が露になる。
下卑た笑いが男の口から漏れている。は虫類を思わせる舌が唇を舐めた。
その舌がエリスの首筋に這った。
家での一件があって以来、エリスの剣が抜かれたのは初めてであった。
人前で剣の力は使うまいと決めていたためだ。
だが、恐怖を通り越した嫌悪感と憤りとが、エリスに次の言葉を言わしめた。
「ニュクスの名に於てこの者に裁きを!」
言葉が終わらないうちに、エリスを押えつけていた力が弱まった。
素早く身を屈め、男の下から逃れる。
げぇぇぇぇぇ…
男の口から漏れていた笑いが呻きに変わっていた。
エリスは、男が買い与えた真新しい布を掴むと、引き千切られた布を脱ぎ捨て、身に纏った。
男の呻き声が叫びに変わった。
建物の隙間に強風が吹き込む時のような、高く長い叫び。
エリスは脱ぎ捨てた布切れで男が舐めた箇所をごしごしと拭き取ると、その布を男に投げつけ、後は何も持たず部屋を飛び出した。
男の家から使用人が追ってくるのではないかと、家々の陰に隠れるようにして逃げた。
辺りの景色に木立ちが目立ち始めたのに気付き歩を緩めると、足先に落ちている剣に目が止まった。
確かめるまでもなくニュクスから授かった剣である。
エリスの耳にはまだ男の叫び声がこびりついていた。己の闇に喰われた恐怖の叫びが。
剣の力がエリスを救ったのは解っていたのだが、感謝の念は浮かばなかった。
手に取るとひんやりとした鉄の感触が伝わる。
エリスは剣を抱え、闇に紛れるように夜の街を歩いていった。
それから何日かして、男が死んだことを知った。
隣街で新しい主人に仕えていたエリスの耳に、屋敷に出入りしている商人達の噂話が聞こえてきたのだ。
何かに怯え、眠ることはおろか、ろくに物も食べず、衰弱の一途を辿る痛ましい死に様であったらしい。
この街で出会った人は女性だった。
優しい言葉を掛けてくる男を警戒して、仕えるならば女性にしようと決めていた為、息子と二人暮らしのこの女主人に仕えることは、エリスにとって好都合といえた。
だが、平穏な日々はすぐに潰えた。
息子と仲よくなったエリスに対し、女主人の態度が一変したためである。
女主人はことごとくエリスを目の敵にし、下賎な者とはつき合うなと息子に言って聞かせた。
エリスにとっては、その程度の嫌がらせは何と言うことはなかった。
実の親に酷い仕打ちを受けたことに比べれば、エリスの心を痛める程の仕打ちとは言えないからだ。
だが、エリスが健気に働けば働く程、女主人の嫌がらせは執拗になっていった。
《息子に言い寄ってこの家を乗っ取ろうとしているのではないか…》
幼いエリスにそのような考えが浮かぶはずもないにも拘わらず、女主人はその疑念を信じて疑わなくなった。
—そしてまた、エリスには身に覚えのない濡れ衣を着せられる事件が起きたのである—
女主人の大切にしていた指輪を盗んだ犯人として、エリスに疑いが掛けられた。
何一つ高価な物を持っていないエリスが、唯一持っている剣。
誰の目にもそれは不自然に写った。
当然短絡的に結論を出す —何処かの屋敷から盗んで来たものではないか— と。
そして、その考えは女主人の指輪が盗まれたことに結び付いた。
エリスは突然部屋に押し入ってきた大人達によって、強制的に身体検査をさせられそうになった。
必死に抵抗するエリスを見て、更に疑念に火が付いたかのように大人達がエリスを押えつける。
「やめて!わたしは何もしていない!」
「じゃあ、その身なりに不釣り合いなこの剣はどうやって手に入れたんだ」
「剣と奥様の指輪とは何の関係も無いじゃない!」
「関係があるんだよ!その鞘の中に隠してるんじゃないのか」
そう言うと男の一人がエリスから剣を取り上げた。
「往生際の悪い子だね」
その声に顔を上げると、この家の女主人が扉の脇に立っていた。
取り上げた剣を女主人が受け取る。
「ほぅ、これは見事な剣だ」
女主人がにやりと笑う。
「母さま、何をしているんです!それはエリスの剣ではありませんか!」
事の騒ぎに息子が駆けつけた。
「お前には関係の無いことだよ。このこそ泥にちょっとおしおきをするだけさ」
「やめてください母さま。それはニュクスの剣。エリス以外の者が手にしてはならないのです」
息子はそう言うと、大人達の手からエリスを救い出した。
「そうだったよね」
同意を求めるようにエリスに笑いかける。
それを見た女主人の顔色が変わった。
「どこまでぬけぬけと嘘をつくんだい!私を誑かそうったってそうはいかないよ!」
エリスは女主人の心を読んだ。
—エリスが息子に取り入って、この家を乗っ取ろうとしているのではないか—という疑念を。
「わたしが気に入らないのなら『出て行け』と、それだけ言ってくだされば良いのに」
「煩いね!この泥棒猫が!」
剣の闇の力が反映され、女主人の顔に狂気が疾り抜ける。
「母さま!その剣の恐ろしさが解らないんですか!」
エリスは自分を庇ってくれている少年を見た。
《この人には、ニュクスの剣の恐ろしさが解るのだろうか…》
エリスを庇ったことで女主人の怒りが更に煽られた。
すっ、と剣が引き抜かれる。
それを見た男達が慌てて止める。
「奥様、そんなむきにならなくとも、私達で絞め上げてみせますよ」
だが、既に遅かった。剣の闇に触れた彼女は最早、正気の世界に留まってはいなかったのだ。
女主人は止めに入った男達を切り付けた。
目の前で暴徒と化した母親を見ながらも、少年は冷静に判断を下した。
「エリス、君は逃げなさい」
「でも、」
「解らないのか!君が此処にいれば居るだけ母さまの狂気が募る。そうなったら、君は殺され兼ねないんだぞ!」
息子の言葉に押され、エリスは取るものも取り敢えず部屋を飛び出した。
《私が、奥様の狂気を募らせてしまった?》
走りながらエリスの頭の中に不安が過る。
「母さま!やめてください!」
ガラスの割れる音、悲鳴、争う声。断片的に聞こえる音から逃げるように、エリスは走り続けた。
エリスの手から離れても剣はいつのまにか戻って来た。
これまで散々試したのだ。
林の中に捨てたり、土の中に埋めたり、川に投げ入れたこともあった。
だが、どういう訳か自分のすぐそばにいつの間にか現れる。
その度に力を受け入れろとニュクスに言われている気がした。
エリスの行く先々では様々な不幸が起きた。
或る女はエリスのみすぼらしい格好を笑い、高慢な態度を取った。
その結果、今まで惜しみなく財を与えてくれた男達に見向きもされなくなった。
或る男は自分の家系を誇り、エリスを下賎な者として扱った。
その結果、自分の親族に裏切られ、家を乗っ取られてしまった。
エリスに関わる者達が、何かしら不幸な目に遭ってしまうのだ。
無論、それ等はエリスと言うよりは彼等に非があるのだが、エリスがその者達の前に現れなければ、そのまま生活が送られていく筈であった。
そんなことが続き、エリスは自分が人の心の中に隠されている闇を引き出してしまうことに気付いた。
次第にエリスは人と会話することさえ避けるようになっていった。
人と関わらなければ、何も起こりはしないのだ。
そう思う反面、心に闇を持つ人々の多さに嫌気がさしていたのも事実だった。
利己主義で、自分勝手で、自己中心的な生活をしている者の何と多いことか。
自然の恩恵を忘れ、大地の恵みから、川の水、草木に到るまで、全てが自分の物であるかのように振舞う傲慢な態度。
エリスは人々の醜い面を目の当たりにしていた。
そして、次第に人という生き物自体を嫌悪するようになって行った。
ふぅーっ。
《もう、何年も前の出来事なのに…》
エリスは空を見上げ、長いため息を吐いた。
深々と募る闇は、夜明けが来ることを拒んでいるかのように思える。
《あの時、わたしを庇ってくれた少年は、今はどうしているのだろう》
ふっ。
エリスの口から自嘲にも似た声が漏れた。
《その後のわたしの噂を聞いて、あの時殺されてしまっていれば良かったのにと、庇ったことを後悔しているかもしれぬ》
静か過ぎる闇は、エリスに回想を続けさせる。
—エリスは決意した—
エキドナの元を訪れよう。
闇に魂を売った者がどうなるのか。闇に魂を売るまでもなく、既に汚れた精神を持つ人間共が、更成る闇に身を落とした時どうなってしまうのか。
エリスはどうしても知りたくなったのである。
そこでエリスが、恐怖と暗闇とを人々にもたらす女神として名を馳せることになる、決定的な事柄が起こるのであった。
エキドナの居場所を捜し出すのは容易な事ではなかった。
なぜならば、エキドナもニュクス同様、出会った者は闇の世界に引きずり込まれ、噂でしか人々の前に現れないからである。
自堕落な生活を送っていれば、知らぬ間にエキドナの元に連れて行かれるとも、北の果て、火を吹く山の地下の洞穴に棲んでいるとも言われていた。
ニュクスの剣の力を使えば、容易に捜し出せるであろうことは解っていたのだが、エリスは未だ、剣の力を使うことに抵抗があった。
およそ三年に渡り、エリスは北の地へと歩を進めた。
旅の途中で力尽きても、それはそれで構わないとさえ感じ始めていた頃、一人の少年が淀んだ泉で死体を洗っているのに出会った。
何処かで見た覚えのある少年だった。
少年の傍らには山になった死体が無造作に捨て置かれている。
老若男女、血に塗れた者もいれば、眠っているような者もいる。
「何をやっているのだ」
エリスは少年に声を掛けた。
「見て解らぬのかえ?」
唐突に背中から女の声が掛かった。
振り返ったエリスの目に上半身を露にした美しい女性の姿が映った。
無造作に束ねられた髪の一部が解け、白い肌に乱れたウエーヴを描いている。
エリスがもう少し歳のいった男であったなら、思わず見とれてしまうであろう程の妖艶さを漂わしていた。
白い肌にくっきりと浮び上がった赤い口が薄く開くと、「死体を洗っているのさ」含み笑いを口元に張り付けた女がしなをつくりながら言った。
少年はそんな二人の会話に耳を貸すこともなく死体を洗い続けている。
洗い終わった死体を少年が岩場の陰へと運ぶと、それを待ちかねていたように何本もの枯れ枝が死体に絡み付いた。
誰かが岩場の陰から器用に死体を枯れ枝に絡めて運び去ろうとしているのだ。
エリスは匠に枯れ枝を操る何者かに興味が沸いた。
洗われた死体を何処へ運ぼうとしているのかを知りたかったと言っても良い。
エリスはかさかさと乾いた音をたてながら死体に絡み付いている枝へと手を伸ばした。
と、エリスが枝に触れるより早く、死体に取り付いていた枝がエリスの腕を掴んだ。
僅かな湿り気と、薄らと感じる温度とでようやく枝が何であったのか気付いた時は、何十本という骨と皮ばかりの手によって、エリスは地中に引きずり込まれようとしていた。
ひっ。
悲鳴がエリスの呼吸を止めた。
頭から地中に引き込まれて行くエリスの目に、窪んだ眼球の奥に光る目が幾つも光っているのが見えたからだ。
そればかりではない。吐き気をもよおす程の腐臭と、それを発している何百という肉片が、今、正にエリスが落ちようとしている空間をびっしりと埋め尽くしているのだ。
引き千切られた幾つもの手足が不自然な曲がり方をして、エリスがその上に落ちてくるのを待っていた。
がりがりに痩せ肋の浮いた身体に僅かな布を纏った生き物が、一様に口を開け手を伸ばしていた。
口の中の薄いピンク色が辛うじてその者達が生きている、言い換えるならば、食べ物を欲していることを表していた。
《落ちたら喰われる!》
渾身の力を込めてまとわりつく腕を払い退け、岩に辛うじて掛かっている足先に力を込める。
背筋を使い、身体を思いっきり持ち上げる。
何本か執拗に絡み付いてくる腕をエリスはへし折った。
急いで岩場から逃れようとしたエリスのすぐ後ろに、新たに洗い終えた死体を抱えた少年が立っていた。
エリスの身体が硬直する。
何となれば、そこに立っていたのは紛れもなく、自分の弟サガの変わり果てた姿だったからである。
《まさか、サガである筈がない。あの子がこんな処にいる筈はないもの》
固まってしまったエリスは、背後で蠢く腕が自分に向かって伸びてきていることを、忘れた。
思考が止まっていた。
不意に空気が薄くなり、眩暈にも似た感覚に襲われるのと、自分の身体が落下しているのを同時に感じたかと思う間もなく、冷たい感触と弾力を伴うものの上にエリスは落ちた。
生理的恐怖がエリスを襲う。
腐敗した肉片が髪に付く。胴体から引きずり出された赤黒い内臓の汁が顔にかかる。誰のものとも知れぬ千切り取られた腕が足に触れる。
その恐怖がエリスを正気に戻した。
「何故です!ニュクス!何故サガがあんな目に遭っているのですか!」
そう叫んだエリスに僅かな髪を皮膚に止めている頭蓋骨が打ち下ろされた。
ガツン、という衝撃と共に、エリスは気を失った。
耳の奥で歌声が流れていた。
それは不思議な旋律だった。
渦の中に沸き上がるあぶくのような、不規則でありながらも自然を感じさせる音色だ。
エリスの意識が目覚めてからも、その旋律がすぐ脇に座っている女性の喉を震わせている音だと気付くまでには、大分時間が掛かった。
ゆっくりと顔を巡らし、足元から視線を伸ばして行くと、先程見掛けた艶っぽい女性の顔があった。
先程と同様に少し乱れた髪が肩にかかってはいたが、素肌の上にストールを纏っているため水浴み後、部屋で寛いでいるようにも見える。
ふと、冷たさに気付く。
あらためて首を巡らし、エリスの横たわっている場所が薄暗い岩に覆われた一角であることを知った。
女とエリスの元に光が入るよう、岩の上部に窓らしきものが作られてある。
エリスの下には気持ちばかりの布が敷かれていた。
「お目覚めかえ?」
女は歌を止めエリスと向き合った。
エリスの頭の中に先程の光景が浮かぶ。半身を起こして問う。
「わたし、どうしてここへ?あなたが助けて下さったのですか?」
女は目を細めて言った。
「そうではない。その剣がそなたをここへと連れて来させたのじゃ」
ふと手元を見ると、ニュクスから授かった剣が無造作に置かれてあった。
途端、エリスの脳裏に弟のサガの姿が蘇った。
「あの者達は腐肉しか食さぬ。その剣が無くば、そなたはあの穴で腐蝕していたであろうな」
エリスは女の言葉よりも弟の身を案じていた。そんなエリスの表情を見て、
「彼の者と知り合いかえ?」女が水を向けた。
「先程、川で死体を洗っていたのは、私の弟です」
「彼の者には兄弟はおらぬと聞いておったが」
「いいえ、私達は六人兄弟で、訳あって私は家を離れましたが、残る五人は一緒に暮らしていた筈です」
「ならば彼の者には、兄弟と呼ぶべき者が見当たらないのじゃな」
その言葉にエリスは返事に窮した。
「無論そなたも彼の者に姉と思われてはおらぬと言うことじゃ」
すかさず女が続ける。
「良いことじゃ。闇の住人には光の世界の者なぞ見えぬ方が暮らし易い」
「何故サガがあのような目に遭うのです」
女は目線を宙に漂わせ「知らぬ」と短く答えた。
すがるような目を向けるエリスを憐れんで、「ある日、ふいにここへとやって来て何か手伝えることはないかと聞くので、亡者の食する死体から服をはぎ取って身体を洗うよう申しつけた」と、付け加えた。
女の言葉からでは、サガの身に何が起きたのかを推測することは出来なかった。
「サガと話をさせて頂けますか?」
「好きにおし。だが、彼の者に人の言葉は聞き取れぬ」
女の言った意味が解らないながらも、エリスは短く礼を言うと、女の指さした先にある出入口と思われる布をめくり、外へと向かった。
長く掘られた横穴を辿り、光の元へと顔を出すと、先程と同じように死体を洗い続けている少年が目に入った。
ゆっくりと近付く。
「サガ」
つぶやくようにエリスは少年に声を掛けた。
しかし、少年はエリスの声が聞こえないどころか、エリスの存在にすら気付いていないように、ただ黙々と作業をこなしている。
「サガ」
エリスは少年の肩に手を掛け、半ば強引に振り向かせた。
「……」
エリスを見ても少年は何も答えない。
「サガ、わたしを忘れてしまったの?」
少年はエリスに肩を揺さぶられながらも、やりかけの作業が気になっている様子でいた。
「人の言葉は聞き取れぬと申したであろうが。下手な好奇心は持たぬ方が良い。ここへ来るにはそれなりの理由があろう」
何時の間にか女がすぐ後ろへと来ていた。
「それが解らないからこそ知りたいのです。サガはまだ十になったばかりの筈。家族から離れるなど考えられません」
「ならば、其方は何故此処へ来たのじゃ。見たところ、幾らも歳がいっているとは思えぬが」
「ここはわたしの旅の通過点にすぎません。わたしはエキドナの棲む北の地を目指しているのです」
その答えに、女は可笑しそうに笑い声を立てた。
「エキドナの棲む所は北の地などではない。此処には方角など存在しない。人の闇の中から、知らずと通ずる路があるのじゃ」
エリスは一瞬、女の言葉が理解出来なかった。
「人によっては、西へ通ずる路がエキドナへの路かも知れぬ」
エリスは慎重に言葉を繋いだ。
「あなたが、エキドナなのですか?」
エキドナに関する伝え語りでは、かの上半身は美しくとも、下半身は皮膚に斑をもつ大蛇とされていた。目の前にいる女の下半身は布で覆われてはいたが、とてもそのようには思えなかったからである。
「さよう」
女は平然と肯定した。
「我が本来の姿を見たいかえ?」
エリスは先程の、地中の奥で蠢く、窪んだ眼球の奥に光る目の集団を思い出した。
死者の肉を喰らう者達。
あれは良心と引き換えに黒い力を手に入れ、黒い力を使い、目的を果た人間達のおぞましい末路であったのだ。
枯れ枝のような、骨と皮だけの指で掴まれた感触を思い出し、エリスは身震いした。
そんなエリスの様子を見ながら、エキドナが続けた。
「此処まで辿り着いた褒美として、其方に名を与えよう。既にニュクスより授けられておるか?」
エリスは首を横に振り、「いいえ」と答えた。人はそうそう神から名を与えられるものではない。
エキドナはエリスを手招きし、エリス一人に聞こえる程の小さな声で名を告げた。
この国では、神から授けられた名は秘めなければならないとされている為だ。
「覚えたかえ?」
おずおずと頷く。
エキドナは満足気にエリスを見遣ると、傍らの少年に目を向けた。
「その者には闇の力が働いておる。目はうっすらとお前の顔を見ているにすぎぬ。耳はかろうじて何かしらの物音を聞いているにすぎぬ。そして、口も思うようにはきけぬ」
エリスの脳裏に家を出る直接の原因となった兄たちの姿が浮かんだ。まるで三人が受けたニュクスの罰が、サガ一人に被さったような弟の状態に、エリスは閃くものがあった。
「兄たちか?兄たちの仕業なのだな!」
エリスは叫ぶようにサガに問い詰めた。しかしサガは答えない。
「真実が知りたければ、剣に聞いてみるがよい」
エリスが掴んでいた肩を放したことにより、少年は再び死体を洗い始めた。
《またしても剣を抜くのか。剣に頼らなければ真実は解らないと言うのか》
エリスは未だ剣を抜くことに躊躇いがあった。
エリスは思い出したくない真実に一旦回想を途切らせた。
薄らと空が白み始めている。
《このままでは休息する間もなく、朝を迎えてしまいそうだ》
エリスは思考を止め、目蓋を閉じた。
眠れずとも休むことは必要だ。
風が彼女の頬を掠めたことにより、エリスの意識は目覚めた。
だが、目蓋は閉じられたままだ。
目蓋の上からちらちらと光が届いてきていた。風にそよぐ木の葉が光を踊らせているのだ。
ふいにエリスはラルンドに会いたくなった。
エリスにとって光はラルンドを意味しているようなものだ。
《アリアードのことがあって以来、ゆっくりと彼女と話をする機会を失っていた。それ故にあのような忌まわしい過去を思い出したのかも知れぬ》
エリスは半身を起こすと、ラルンドの気を探った。
先日、アリアードに操られた民によって、傷を受けたばかりだ。無理をさせてはいけない。
心穏やかに休んでいてくれればいいが。
ラルンドはすぐにエリスの気を感じ取り、波長を合わせてきた。
ふっ。
《相変わらず彼女は、気を張ったままだ》
力を奪われる前のラルンドは違っていた。
無防備と言っていい程、彼女は気を緩めていたのだ。
だが、今は違う。
民の心が不安にかられてはいないかと、いつも気を張り巡らしているのだ。
《不甲斐ない。休息を与えるべきわたしにまで、気を遣わせてしまっているとは》
エリスは素早く身支度を整えると、右手で左の肘を、左手で右の肘を掴んだ後、体の正面を軸にしながらゆっくりと両手を額へとずらして行った。
闇の支配力を持ってすれば闇から闇への移動は、行く先に僅かな影があれば容易く出来る。
「エリス、来てくれて嬉しいわ。丁度話し相手が欲しかったところなの」
エリスはラルンドの元へと姿を現すなり、声を掛けられた。
読んでいた本を閉じ、寝台から降りようとしたラルンドをエリスは片手を上げて制した。
「嘘をつくものではない。わたしが会いたがっているのを知って、波長を合わせたのであろう」
くすっ、とラルンドが笑う。
「本当に話し相手が欲しかったのよ。一人でいると心が落ち着かないのだもの。私はこんなことをしていて良いのだろうか…って、そればかり考えてしまうの」
背中につけられた傷は塞がったものの、流れた血による体力の消耗は数日で回復できるものではない。
エリスは静かにラルンドの側へと歩み寄ると、そっと彼女の髪に触れた。
アリアードに洗脳され暴徒と化した民により、ラルンドの長かった髪は切り落とされていた。
「辛いか?」それだけを舌に乗せる。
「いいえ、私よりも希望の光が薄れている民の方が余程辛い筈よ」
《この想いが、ラルンドが愛情を司るエロースから支配力を渡された由縁なのだな》
エリスはラルンドに対して刃を向けた民を憎んだ。だが、その時でさえ、ラルンドは民の心に平和を祈ったのだ。
「エリス、あなたの方が何か辛い目に遭ったのではなくて?」
ラルンドの髪を弄っているエリスに視線が向けられる。
「恐怖と死をもたらす闇の女神…か。このわたしを恐れない者は、ニュクスとエキドナと、そしてラルンドだけであろうな」
問いかけるような眼差しを向けられて、エリスはラルンドの髪から指を外した。
「何でもない。少しばかり過去を思い出しただけだ。わたしのことなど気にせずに休みなさい」
「お喋りをしに来たのではないの?」
「いや、顔を見に来ただけだ」
まだ何か問いたげな表情を見せたものの、ラルンドはエリスの言葉に従った。
「暫く、ここに居てもらっても構わない?」
頼み事をする時、時折見せるラルンドの甘えるような表情をエリスは気に入っていた。
軽く口元を緩め、頷く。
それを見て安心したようにラルンドは瞳を閉じた。
《わたしに心を開く者などいないと思っていた頃は、こんな風に安息する時間すら持てなかった》
ラルンドの寝顔に、エリスは弟の顔を想い起こした。
《闇の力を授かった後、たった一度だけ、サガはわたしに対して安らぎの表情を見せたことがあった。たった、一度だけ…》
エリスはサガに対して、剣の力を使わずにいた。
辛い目に遭ったことは解っている。しかし、真実を知る為に、剣によりサガを恐怖に陥れてしまうことは避けたかった。
何時か、サガ自身が打ち明けてくれることを願っていたのだ。
最終目的地であったエキドナの棲む地に辿り着いたものの、エリスは目的と呼べるものを見出せずにいた。
愚かな人間の末路が何であるかを知る為の旅であった。
既に結果は知れている。今日も飢えた亡者共は、サガが洗い続けている死肉を貪っていることだろう。
『闇の本質が知りたくば、剣を抜くことじゃ』
エキドナの言葉にエリスは気持ちが揺らいでいた。
《真実を知ったからといって、その後、わたしはどうしたいのだ。サガの身に降り掛かった災難を取り除くことが出来るとでも言うのか?》
《真実を見ずに、サガをこのままにしておくつもりか?手助け出来るかも知れないではないか》
《剣の力により新たなる恐怖がサガを襲わないとも限らない》
《人間の奥に潜む闇が何であるか見極める為の旅ではなかったのか?》
心の中で葛藤が続いている。
だが、真実はいとも簡単にエリスの知る処となった。死体の山の中に母親の姿を見付け出したからである。
彼女は生きたままエキドナの元へと送られていたのであった。
エキドナが死体の山から母親を引きずり出し、サガを呼びつけた。
【この者の肉を食めば其方はこの地より解放される。今、一番逢いたい者にも逢えようぞ】
サガの前に母親を突き出して、不思議な旋律の言葉でエキドナが釈いた。
サガの手に刃物を握らせている。
母親の顔は引きつっていた。
「エキドナ!」
あまりの光景にエリスは声を荒げた。
「ニュクスからの使いの者が、そうこの者に伝えよと言って来たのだ。真意を計りたくば使いの者に問いただすがよい」
傍らにこの地に不似合な正装をしている痩せた男が立っていた。
エキドナの言葉が言い終わらないうちに、エリスは使者を問い詰めた。
「あの少年は罪を負うべき者の身代りを買って出たのです。だが、罪を負うべき者はその後も改心などしなかった。そこでニュクスは身代りとなった者をこの地から解放する為に、本来罪を負うべき者をこの地へ寄越したのです」
使者はエリスの剣幕に押されて、とりあえずの事を語った。
「罪?」
エリスの問いに使者は語り始めた。
「そもそもの発端は、少年の母親がニュクスの剣を恐れたことから始まりました」
使者はエリスが家を出る原因となった出来事を語った。
その後、何時までも兄たちの傷が癒えないのはサガのせいだとされ、兄たちが今までしてきた仕事の一切をサガは押し付けられたのだ。
《当時、サガは五歳の筈だ。兄たちの仕事と言えば、薪運びやら家畜の世話といった力仕事の筈だ。それを押し付けたというのか》
当然、サガは母親の思うようには仕事をこなす事など出来ず、罵声を浴びせられる日々を送った。
何度か季節が巡り、毎日の仕打に堪えかねた末、遂にはエリスにすがりたい気持ちが優った。
だが運悪く、母親にエリスへの祈りの現場を見られてしまった為、母親はサガが闇の力に通じていると思い込み、ニュクスにサガを闇に連れて行って欲しいと訴えたのだった。
エリスの表情が険しくなった。
自分さえ家を出れば済むと思っていた。今まで家族のことなど思い出しもしなかった。
「それでサガが此処へと連れて来られたと言うのか?おかしいではないか!」
「ニュクスは母親の言葉を聞き、母親自身が闇に落ちるべきだと判断を下しました。それを聞いて少年が訴えたのです。『母が居なくなると、兄や妹の面倒をみる者が居なくなってしまいます。そうしたら、女神様との約束を破ることになってしまいます。僕を替わりに連れて行ってください』と」
だが、母親はサガが身代りになった恩を忘れ、兄弟たちの面倒を怠った。
ニュクスはサガに伝えた。
【もうこれ以上、おまえの望みを聞く訳にはいかぬ。彼の者は闇に落ちなければ、己の愚かさが解らぬ】
「では、兄たちはどうなるのです。あのままでは生活出来ません」
【おまえは、どうしたら良いと思っているのだ】
「解りません。でも、女神様との約束を破る訳にはいきません」
【では、兄たちの面倒を見る替わりに、お前が兄たちの傷を癒すのだな】
「そんなことが出来るんですか?」
【簡単だ。身代りをたてれば良いのだ】
サガは兄たちの罪の分まで、その身に受けることをニュクスに告げた。
「何故だ!いくら誓いが神聖なものとは言え、何故ここまでしなければならない!」
エリスは健気な弟に同情した。
他人の過ちの為に、我身に罪を被る模倣など、エリスには到底出来なかった。
そこまで善人の弟が闇に落ち、他人に罪を着せて平然としている人間が日の下で生活している理不尽さに、エリスは益々人間を呪うことになった。
「ニュクスも哀れに思われたのです。ですから、少年が負った責が消える方法を彼に与えました」
「それが母の肉を喰うことなのか!」
「そうです」
使者は事も無げに告げた。
「そんなことが許されるものか!母の肉を喰ったと知ったならば、サガはどれほど後悔することか!」
エリスはサガを振り返った。
未だ、刃物を手にしたまま動かずにいる。
サガにはやり取りの内容は聞こえなかったものの、母親には聞こえていた。
これから自分がどんな目に遭うかを理解したらしく、先程よりも引きつった顔をしている。
サガが自分の肉を喰えば、自分がサガと同じ目に遭う。つまり、目も見えず、耳も聞こえず、口も聞けない状態で、死体を洗い続ける毎日を過ごすことになるのだ。
だが、サガはエキドナに告げた。
「できません」と。
もちろん、サガの発した声は、言葉としてエリスには届かなかった。
「出来ないと言っておる」
エリスの表情を察してエキドナが告げた。
エリスにはサガの判断が正しかったのかどうか理解出来ずにいた。これが母親の肉ではなく、動物の肉であったなら、無理にでもサガに食べさせたに違いない。
《或るいは知らない人の肉であったなら、わたしはどうしただろう》
エリスはサガに近寄った。聞こえる筈もないが、それでも言わずにはいられない。
「サガ、このままで良いのか?他人の罪を負ったまま此処で一生を過ごすことになるのに、それで、いいのか?」
知らず、エリスは涙を流していた。
背後で母親が安堵のため息を漏らしたのに気付き、すかさずエリスは振り返った。
その顔は怒りに満ちている。
《サガが己の自由を放棄したというのに、止めないのか?自分が助かれば、サガはどうなっても構わないと思っているのか?》
エリスは剣を引き抜いた。その手がわなわなと震えている。
「サガに出来ぬのならば、わたしがお前の肉を喰らってやる!」
ひっ、と息をのみ、泣き笑いの表情が母親の顔に貼り付く。
エリスは剣を逆手に握り、母親の顔に向かって跳んだ。
だが、突き出された剣先は母親の脇を通り抜け、何も無い空間を切り裂いていた。
涙で視界が霞む。
エリスの心の中には憎しみしかない筈であったのに、母親に剣を突き立てることは出来なかった。
エリスは踵を返すと、足早にその場を立ち去った。
「さて、どうしたものか」
エキドナがつぶやいた。母親を後ろ手に縛り上げたまま、使者に目を遣る。
「ニュクスより、少年がその者の肉を食さなかった場合は、エキドナの巣に落とすよう伝えよと承っております」
「そうか」
エキドナは口元に妖艶な笑みを浮かべ母親を見詰めた。瞳が潤んでいる。淫乱な女が男を誘うような眼差しだ。
それが母親が見た最後の人の顔になった。
亡者の穴から断末魔の叫びが上がった。
振り返ったエリスの目に母親の姿が写らなかったことで、声の正体がおぼろに知れた。
《まさか》と思った。
だが、闇の支配者が罪人を許す筈がないことは解っている。
それでもなお、意識の何処かでそれを否定したがっている自分がいる。
《まさか、亡者の穴に落とされたのか?》
解ってはいても、自分の目で確かめずには居られなかった。
慌てて駆け戻るとエリスは腐臭の立ち篭める穴を覗き、信じられぬ光景を目の当たりにした。
むっと密度の濃い臭気が顔にかかる。
乾いた皮膚に目だけをぎらつかせている亡者の群れが、我先にと落ちてきた“餌”に群がり、強引に肉を引きちぎっていた。
後から後から押し寄せる亡者達により、引き千切られた肉は、更に小さな肉片と成る。
最早“餌”の原型であったものは見当たらない。辛うじて腕や足の形が解るに過ぎない。
幼い子がいやいやをする時のように、エリスは頭を振りながらも、その光景を見続けた。
と、母親の腕と思われる肉片を喰っている亡者の腕が、喰った肉に取って変わったのだ。
母親と同じ位置にある黒子でそれが知れる。
母親の足を喰った者、胴を喰った者、各々がゆっくりと変化していった。
エリスが覗いている気配に気付き、亡者が一斉に顔を上げる。
狂喜に歪んだ顔、顔、顔…。
「いやぁぁぁぁぁ!」
エリスは顔を背け、這いずるようにして穴から離れた。
見てはならないものを見てしまったのだ。
暗い穴の底から、母親の顔を喰ったであろう亡者が、血に濡れた顔でエリスを見上げていた。
ふいにエリスは喉に溢れるものを感じた。意識より先に身体の方が現実を拒否したのである。
げはっ。
息を付く暇もない程胃の中から逆流する液体は、吐くものが無くなっても止まろうとはしなかった。
まるで己の内臓を全て吐き出そうとしているかのような激しい嘔吐感で、エリスは動くことすら出来ずに居た。
服に吐瀉物が容赦無く汚い染を作っていく。
暫くして、荒い息をしながら呆然としているエリスの背後で声が聞こえた。
「サガと言ったか。お前の罪はもう許されているのだよ」
エキドナが普通に話しかけている。
エリスに辛うじて残っていた理性が、それにより引き戻された。
緩慢な動作で声の方を振り返る。
「人の肉を喰わなかったことで、お前の罪は許されたのだ」
サガは眠っているようだった。
地面を這うようにして、エリスはサガの元へと向かった。
「ここでの記憶を消す前に一つだけお前の望みを叶えよう。今、一番逢いたい人の名を告げるがよい」
エリスはサガの口から母の名が告げられることを恐れた。最早、母は居ない。
だが、サガが告げた名は母ではなく、父でもない。他ならぬエリスの名であった。
エリスはサガの顔を覗き込んだ。
サガはゆっくりと瞳を開くと「良かった。もう会えないと思ってた」そう言ってエリスの手を握ると、にっこりと微笑んだ。
「ちょっとでいいから、こうして居て」
サガはそう言って目蓋を閉じた。
満足そうな顔をしている。
不意に、握られていた手の感触が弱まった。見ると、サガの手が透けている。まるで大気に溶けていくように徐々に輪郭がぼやけ始めた。
「サガ!」
「心配ない。地上へと返って行くだけだ」
「サガ!」
「サガ!」
エキドナの声も耳に入らないかのように、エリスはサガの名を呼び続けた。




