04一人きりの神話/エリス_03
日が傾き始めていた。
窓越しに荒れ果てた中庭が見て取れる。
エリスはラルンドの顔に光が当たらないように、窓に布を垂らした。
《あの時母親を殺していたら、わたしも亡者になり果てていたかも知れぬ》
エリスはエキドナを憎んだ。母を亡者の穴に突き落とした事実を。
「これが闇の本質だ」
責めるエリスに、エキドナは平然と言って退けた。
「人の心を失った者は最早この者達の餌に過ぎぬ。人だからといって生かしておく必要が何処にあろう。邪念を持たぬ家畜の方が余程価値がある」
エキドナの言葉も、エリスを納得させはしなかった。
「そなたも見たであろう。あの者達が女を喰らうところを」
エリスの脳裏に血を絡めた母親の顔が浮かんだ。胃液が喉元までこみ上げて来るような不快感が沸き上がる。
「あの者達は腐肉しか食さぬ。つまりは女の心が腐っていたということじゃ。表面的にはどう見えていようとも、皮一枚剥げば腐肉と変わらぬ」
《あの時エキドナが言った言葉。今ならば理解出来る。だが、当時のわたしはまだ、母を慕う子供に過ぎなかったのだ》
闇の裁きは往々にして凄惨なものだとは聞かされていたが、亡者に喰わせるほどの罪を母親が犯していたとは思えなかった。
エリスはエキドナの元を離れた。
辿り着く時に比べたら、呆気ない程簡単にエキドナの棲む地から離れる事が出来た。
結界でも張ってあるのか、幾らも歩かないうちに何処がエキドナの棲む洞窟か解らなくなってしまったのだ。
挨拶もろくにせずに出てきたことを悔やんだが、面と向かって挨拶出来るとは思えなかった。
まだ、母親のことが鮮明に心に残っていたのだから。
この地を離れることが、少しでも記憶から母を消すことになるとばかりに、闇雲に歩き続ける日々が続いた。
エキドナの地を訪れることがここ何年もの目標だった。
それが果たされた今、目指す場所など無かった。
なるべく人と関わらずに過ごそうとしても、成長すれば衣服も靴も小さくなる。
街で最低限の仕事をして必要なものを手に入れ、すぐさま別の街へと移る生活を繰り返した。
だが、現実は残酷だった。人は生き延びる為には、どんなことでもするのだ。
人と関わることを避けていても、行く先々で出会う者は皆、暗い闇の力を心に宿していた。
或る者は嫉妬に駆られて夫を殺し、或る者は口減らしと称して子を殺し、また或る者は己の欲にまかせ、人の財産、命までも奪った。
その度にエリスは暗い穴の中で腐肉を貪る亡者を思い出したのだ。無論、その顔は母親の顔をしていた。
エリスは傍らで眠るラルンドを見た。
安心しきった顔をしている。
《わたしがその気になれば、他易く殺されてしまうというのに。人は誰もが心に闇を持っているのだよ》
ふふっ。軽く笑いが漏れる。
《そうだった。わたしはラルンドに教えられたのだったな。この人にならば殺されても良いと思う程の信頼を得る事が、どれ程の安らぎをもたらすかを》
エリスはラルンドとの出会いを思い出した。
《わたしはラルンドに出会うまで孤独の日々を過ごしていたのだ》
ニュクスの剣に恐怖し、豹変する人々。死の影に怯え逃げ惑う人々。
エリスは孤独だった。
《わたしは何もしていないのに、何故誰もわたしを受け入れてはくれないのだ》
理不尽とも思える差別、同じ年頃の子と会話もろくに出来ない日々。
何時しかエリスの心は擦れていった。
《闇の恐ろしさをわたしが教えてやろう。表面的な付き合いでしかない人の本質を知らしめてやろう》
それまでのエリスは人に不幸をもたらしてはならないと思い、人を避けるように生活して来たが、不幸になる人間は、所詮、己の生き方が闇に染まっていたからに過ぎないと思うようになっていた。
剣を隠すこともせず、人目を気にすることもせず、エリスに絡んで来た者には存分に後悔させてやった。
エリスに関する噂は、ニュクスやエキドナ以上に広がった。
神話の中でのことではないのだ。現人神として人々の前に存在している分、何時エリスに出会うかも知れない恐怖が、噂を誇張させて行った。
曰く、目があっただけで魂を喰われる。姿を見たものは不幸になる。機嫌を損ねると一年以内に身内が死ぬ。
エリスの容姿も実は老婆が人を油断させるために少女に見せかけているなどと、まことしやかに語られた。
エリスはそれでも構わなかった。勝手に闇を創り上げ、それを恐怖する人々が滑稽ですらあったからだ。
次第にエリスは、恐怖をもたらす闇の女神と人々に囁かれることに、満足すら感じるようになっていた。
自分にはどんな力があるのか人前で試すことも厭わなかった。
《わたしが守り神の像を壊しでもしたら、人々は何と噂するのだろう》
何げに思い付いた事柄から、自然とエリスの足は守り神の像の建つ丘へと向いていた。
別に本当に像を壊すつもりではなかったが、実行するところを想像するのは面白くもあった。
エキドナの元を離れてから季節が何度か巡っていた。
守り神の像の建つ丘はエリスの生まれ育った村から、さほど離れていない。
郷愁の念は無かった。
家を出てから八年の月日が流れようとしていたのだ。当時八歳であったエリスには、愛着が湧く程の記憶は残っていない。むしろ、忌まわしい記憶の方が強かった。
エリスは守り神の像の丘に立っていた。
相変わらず神は何も語らない。
八年前は信じて疑わなかった神も、今では只の石像でしかない。
エリスは赤土に足を踏み入れた。
「だめよ」
不意に後ろから声が掛かった。
「神様の血を踏んではいけないわ」
振り返ったエリスに声の主は告げた。エリスより歳下の、少女と呼ぶには幼い女の子が立っていた。
手に花を携えているところを見るに、祈りを捧げに来たのであろう。
しばし二人は見つめあった。
エリスの持っている剣を見ても、何ら臆することなく、逃げる素振りすら見せない。
無視しても良かったのだが、エリスは女の子に声を掛けた。
「わたしが怖くはないのか?」
そう言ったエリスに女の子は不思議そうに問いかけた。
「どうしてそんな事を聞くの?」
エリスは不思議な感覚に囚われた。剣から発する闇を全て吸い取ってしまうかのように、女の子の心に曇りが無かったからだ。
「わたしを見て恐怖しない者は居ない」
エリスは言葉に悪意を乗せた。
「みんなが、ではないわ」
エリスがさりげなく発した闇を、女の子は簡単に受け止めた。それはまるで、湧き水に一滴のインクを落としたかのように、女の子の心に落ちたエリスの闇は、すぐさま色を薄れさせ、透明になっていくのだった。
「お前はわたしが何者か知らないだけだ。わたしの名を聞いたら、こうも平然として居られる筈がない」
女の子は、はにかんだように笑って言った。
「はじめまして。私はラルンド」
エリスの顔色が変わる。
《わたしの言ったことを聞いていなかったのか?名乗りを上げたからには、わたしも名を返さなければならない。そうなれば、わたしが誰であるか知ってしまうことになる》
エリスは躊躇いがちに小さな声で名を告げた。「わたしの名はエリス」と。
「エリス、綺麗な響きの名前ね」
「お前はわたしが何者であるか解っていないようだね」
腰に下げた剣を見せつけるようにマントをめくって見せた。
「エリスの名前は聞いたことがあるわ。黒い闇の女神と呼ばれている、ニュクスの剣を持つ者のことでしょう」
「そうだ」
「逢えて嬉しいわ」
カッとエリスの頭に血がのぼった。
「わたしをからかっているのか」
口調がきつくなる。
だがラルンドは別段顔色を変えることもなく、あっさりと言った。
「本当に逢えて良かったと思っているの。だって私は噂でしかエリスのことを知らなかったから」
言葉を失っているエリスに笑いかけ、ラルンドは続けた。
「ごめんなさい。私ね、エリスってもっと怖い人だと思っていたの。人の噂を信じてしまうのは良くないことだけど、こうやって会わなかったら、ずっとエリスのことを誤解したままでいたわ」
ラルンドの言葉にエリスの中で何かが弾けた。今まで誰も己を理解してくれなかった孤独が、この子によって癒されるのではないかという期待と、己の闇に触れ、この子もまた闇の力に恐怖して自分の前から去ってしまうのではないか、という失望感とがエリスに行動を興させた。
スッ、と剣を抜く。
「ニュクスの名に於て」
ただそれだけを言って、剣を胸の前に平行に翳した。
《この子の心に闇があれば、この剣に恐怖する筈だ》
それを受けてラルンドが動いた。
「エロースとアンタレスの血にかけて」
左手を大地から天に向けて弧を描くように持ち上げる。
幼い少女が持つには大きな—成人した女性が使う程度の—剣が左手に握られていた。
《この子は、エロースの剣を授かった者だったのか…》
エリスはこの時初めて、自分と同様に神から剣を授かった者に出会った。
神は気まぐれに現れる。時も場所も様々で、出会うことは稀だ。ましてや力を授けられるなど奇跡に等しい。
エリスは自分の行動を恥じた。
《わたしがニュクスの名に於て剣を抜いたことで、わたしに礼を返す為に、この子に守護神の名を唱えさせてしまった》
この国では生まれて初めて洗礼を受ける際に“清浄の儀”と称する、神に加護を祈る儀式が行われる。
生まれた日時の守護神の名の元に無病息災を祈るのである。
その為守護神の名は神聖なもので、無闇に口にすることを許されない風潮があった。
エリスは黙って剣を鞘に納めた。
「うれしい。私に対してニュクスの名前を出して剣を抜いてくれるなんて」
《わたしはお前の心を試す為に剣を抜いたのだぞ》
エリスは言葉に窮した。ラルンドから視線を逸らす。
「私、神様から剣を受け取った人に会ったの、初めてなの」
天に向けて放り投げるように剣を消したラルンドの声は喜びさえ感じさせる。
「きっとエリスと私は六つの星の中で向い合ったところにいるんだわ」
国の運行を司る七人の神は六角錐の形を描いている。そのうちの六人は正六角形に位置される。その対角線上にエリスとラルンドはいると言うのだ。
「そうだね。愛の神エロースと闇の神ニュクスとでは光と影ほどの差がある」
自嘲気味にエリスは言葉を繋いだ。
「そう。だからこうやって出会ったんだと思うの。二人が引き合ったんだわ」
《お互いが引き合った?》
エリスがここに来たのは守り神の像を壊すのも面白そうだと思ったからだ。
「怒らないでね。会ったばっかりで変なんだけど、先刻、エリスが剣を抜いた時、私、エリスになら殺されてもいいと思ったの」
《何を言っているんだ、この子は》
「大きな剣だったから怖かったし、こんな大きな剣で切られたら死んじゃうだろうなって思ったけど、エリスに切られるんならいいや、って思ったの。その時にね、エリスの星と私の星は向い合ってるって感じたのよ」
すごい発見をしたように、興奮して喋るラルンドを見て、エリスは思わず口元を緩めた。
「可笑しい?私って変なこと言ってる?」
ニュクスの剣を見ても怯えない。それだけでも充分変な子だ。
「いや、変じゃない」
あまりにあけすけなラルンドの態度に否定するのは憚られた。
その言葉を聞いたラルンドは、嬉しそうに笑った。
毒気を抜かれたとでも言うのか、エリスは心が和んでいるのを感じていた。
《この子の言う通り、私達は引き合ったのかも知れない。あまりにも対称的な星を授かった為、磁石の両極のように。一人は心の闇を、もう一人は光を引き出す者として》
「エリス」
声を掛けられたことで、エリスは回想から現実に引き戻された。
「ごめんなさい。折角来てもらったのに、私ったら、随分長い間眠ってしまって」
「構わないよ。わたしもその間、休んでいたのだから」
「私ったらエリスに甘えてばっかりね」
ふふっ。と小さく笑う。
「何?」
「出会った頃からエリスはちっとも変わってないな、と思ったの」
「そうか?」
「何時も私が一方的に行動を起こして、エリスを巻き込んでしまっているのに、エリスは私の行為を否定したことが無いのよ」
「そんなことは無い。無謀なことをしようとする時は必死で止めている」
「でも、最終的には聞き入れてくれるでしょう?」
ずるいな、と思う。
拗ねた口調で尋ねるのは反則だ。出会った時もこんな感じで丸め込まれた気がする。
エリスは渋々肯定の言葉を紡いだ。
「もしそうなのだとしたら、わたしも同じ意見を持っているということだ」
ラルンドは嬉しそうに笑った。
連られてエリスも苦笑し、じっとラルンドを見詰める。
「何?」
今度はラルンドが聞いた。
「出会った頃からラルンドはちっとも変わってないな、と思ったのだ」
「そう?」
《わたしの言葉を受けて、嬉しそうに笑うのは、ラルンドくらいのものだ》
すっかり日が落ちていた。
荒れ果てた庭園は闇に埋もれ始めている。
こうしているとアリアードのことを忘れてしまいそうだった。
《昔も今も変わらず星は回り、夜をもたらす。太古の昔から流れている時間の中で、人は各々生活している。星の命に比べたらあまりに儚く、あまりに小さな命で。アリアードが求めた力も、時の流れに比べれば、あまりに小さい。そのことに彼女は気付いているのだろうか》
ラルンドと出会ってからは、エリスは旅をしなくなった。
《人の心の闇を見極めるつもりの旅だったが、今にして思えば、心に光を持つ者を探す旅だったのかも知れぬ》
生家には出向いていない。家族の情はとうに捨てた。
今は闇の力を授かった愛し子として生きる覚悟が出来ている。
アリアードが事件を起こすまでの数年間、ニュクスと出会った大木を住み家とし、時折、宮殿にラルンドを尋ねる日々は得難い時間だった。
暫く黙っていたラルンドが口を開いた。
「エリス、何を考えているの?」
「いろいろだ。ラルンドは?」
「私も」
二人は真紅から濃紺に色を移して行く空を見上げた。
僅かに星が瞬き始めている。
ゆっくりと闇が押し寄せて来ていた。
「ありがとう。エリスのお陰でゆっくりと眠れたわ。でも、そのせいで今日の夜は眠れそうにないけれど」
冗談めかしてラルンドが言う。
「では、わたしの為に、子守歌でも歌ってもらおうか」
えっ?という顔をして目を見開いたラルンドに言う。
「冗談だよ」
エリスは右手で左の肘を、左手で右の肘を掴んだ後、体の正面を軸にしながらゆっくりと両手を額へとずらして行った。
「また来る」
そう言葉を残してエリスは消えた。
大木の上、幹に背を預けた格好で闇に沈んだ景色を見ている。
いくら目を凝らしても、ここからではラルンドの居る宮殿は見えない。
昨日と何ら変わることのない静けさが辺りに漂っている。
ふっ、とエリスは笑った。
《今夜はゆっくり眠れそうだ》




