㉜第二部 第四章 散り残る 四節 旅立ち
尼ケ淵を紅葉が漂っている。
千曲館から南を望む晩秋の眺望は絶景だ。
夕陽に千曲川の流れが煌めくのが、佐助の心には未だ眩しい。
「清海、桜木と一緒に行かぬのか?」
「わしは颯の轡を取って徒歩で行く」
「それで良いのか?」
「桜木は大好きな小太郎を乗せて後から来るわい。
わしが桜木に乗るとちっと目立つじゃろう」
「二つに分かれても怪物は怪物だろう…」
…十月一日。
京都六条河原で、石田三成、安国寺恵瓊、小西行長の三名が処刑された。
…昌幸、信繁父子は高野山に蟄居となった。
信之が必死の命乞いをした。
さらに本多忠勝は勿論だが、榊原康政、酒井家次、井伊直政までが助命のために動いた。
難攻不落の上田城はすべて壊される事になった。
秀忠がまた「羹に懲りて膾を吹いた」のかもしれない。
…信之は約束通り上田と沼田を安堵された。
さらに加増されて九万五千石の中堅大名となった。
…関ヶ原の戦いで領地を没収された大名は八十八家、減封が五家。
没収された総石高は六百三十二万四千石に及んだ。
徳川譜代を中心とした秀忠の徳川本体は決戦に間に合わなかった。
代わりに豊臣恩顧の大名が功績を挙げた。
家康は豊臣政権に亀裂を入れる事には成功した。
が、功績を挙げた豊臣恩顧の大名のために相当の恩賞が必要となった。
…この事で勢力の均衡にいびつさが生まれた。
そのいびつさが導火線となり、十五年後に大坂冬の陣、夏の陣で大爆発を起こす。
家康は二百五十六万石から一躍四百万石の超大規模大名となった。
秀頼は二百二十二万石から六十六万石の一大名となった。
豊臣恩顧の大名で大躍進をした代表は、
福島正則二十万石から五十万石。
加藤清正二十五万石から五十二万。
黒田長政十八万石から五十二万石。
細川忠興十八万石から四十万石。
池田輝政十五万石から五十二万石。
浅野幸長二十三万石から三十八万石。
前田利長八十四万石から百二十二万五千石。
小早川秀秋三十六万石から五十一万石などである。
破れた西軍は、
上杉景勝は百二十万石から三十万石へ。
毛利輝元も百十二万石から三十万石へ。
宇喜多秀家は五十七万石全てを没収の上、八丈島配流。
長曾我部盛親は二十二万石全て没収。
島津家は西軍に与したにも関わらず、強かな交渉により六十一万石を安堵された。
島津義弘は関ヶ原で家康本隊正面からの中央突破をやってのけ、薩摩まで逃げ帰った。
「島津の退き口」と言われる。
…試練を受けた者達には力が蓄えられる。
その力は地下の岩漿の中に受け継がれ二百六十八年後に再び噴火をする。
…堺の今井宗薫から佐助に着物が送られて来た。
佐助の旅装一式と清海の法衣一式だ。
志乃からの手紙が添えられていて、「太郎の顔を見てみたい」と書いてある。
着物を見た「出たがりの清海」がはしゃいでいる。
「全部絹じゃぞ。
坊主がこんな贅沢をして良いものかのう。
堺の金持ちは違うわい」
…佐助を案じた望月六郎が蔦屋宗次に繋ぎを取ったのだ。
「人は弱い生き物じゃ。
猿飛とても例外ではない。
時が何よりも薬になる。
馬鹿も薬になる事が稀にある。であろう狸殿」
あいも変わらずの毒舌を八人衆に披露している。
「そうだな。
転地療養も良いだろう。
追っ掛け、わし達も九度山へ行く」
毒舌殿は絶好調だ。
「清海を先に出して厄介払いをしておこうと思うてな。
大殿が動かれる時に事件は禁物じゃ。
首の皮一枚で繋がっておるのだからな」
甚八が優しい事を言う。
「猿飛の気晴らしのためならゆっくりさせて、外の景色を見るのも良いだろう」
毒舌では小助も負けない。
「では清海は歩かせるか。
馬ではすぐに着いてしまう。
あやつは怖ろしい程の瞬発力を持っておるが持久力は半人前じゃ。
歩かせたら、腹を空かしてあちこちの茶店に寄る。
秀忠軍の行軍並みになろう」
十蔵の悪乗りが始まった。
「それは良い。
相変わらず小助の悪知恵は本多正信に勝るとも劣らぬのう。
ならば路銀は少しだけ持たしてはいかがかな?」
海野六郎も、
「ふむ。十蔵の悪知恵も穴山先生の域に近づいておる。
こたびの調略は猿飛の指導があったとは言え、なかなかのものであった。
路銀が少しなら清海なら四、五日で食い潰すかもしれぬ」
二人の掛け合いが始まる。
「そうなれば行く先々で路銀を作らねばならぬ」
「あやつなら道場破りを考えるだろう」
「清海が動けば問題が起こる」
「猿飛が火消しをする」
「珍道中になるな」
聞いている甚八も笑いこそしないが顔は面白がっている。
「兄者がちとかわいそうでないか」
「伊佐入道よ、心配はご無用であるぞ。
かわいそうなのは問題を起こされる先方である。
清海は何をやっても楽しいのじゃ。
猿飛も堺に着く頃には清海の馬鹿薬が効いて全快じゃ。
結構、結構。めでたし、めでたし!」
「六郎の『狸化かしの術』は効くとは聞いていたが、わしもめでたいような気がしてきたわい」
まん丸のにこにこ印は健在だ。
…慶長五年十月十五日(1600年11月20日)。
二人は上田城を出発した。
北國街道に出て海野宿、小諸宿を通り、追分宿から中山道を西に向かう。
佐助は熨斗目色の小袖に二藍の背割り羽織。
どちらにも前田家の梅鉢紋が入っている。
檜皮色の馬乗り袴に「先子村正」と「相州政宗」の大小を差している。
青黒色の名馬に跨る姿は堂々たるものだ。
三年前、上田城へ見参した頃より身体が一回り以上大きくなった。
轡を取っているのは身の丈六尺八寸・五十貫の怪物である。
その得体の知れない怪物は高僧が着る法衣を身にまとい、大小二本を差し、十八貫の鉄棒を軽々と担いでいる。
鼻から珍道中だ。
張本人の清海は人の目など全く気にならない。
絹の法衣が気に入り悦に入っている。
「柔らかいし肌触りが良い。
気持ちが豊かになるわい。
それにこの色じゃ。
法衣ゆえ黒かと思いきや「黒橡」じゃ。
粋じゃのう。
それにわしの体にぴったりじゃぞ。
猿飛の姉上は並みではないぞ」
佐助は白髪になってしまったので老人に変装している。
体格の良い武家の翁が僧侶の案内で旅をしているように見えなくも無い。
清海が大人しくしていればの話だが・・・。
晩秋の大空の下、信州の連山は初雪に染まっている。
…一面に広がる菜の花畑の中に、夕影と颯に跨った二つの影を映したのは昨年の春だった。
幸と二人、夕陽に向かって上田城に戻った信濃路である。
その信濃路に残紅葉が散る。
清海と二人、朝陽に向かって、主従らしき影を霜柱に残しながら上田城から佐助が旅立っていく。
幸はもういない。
昫も死んだ。
やがて上田城も取り壊される。
「残り散る 紅葉はことに いとおしき 秋の名残りは こればかりとぞ」
縄目の恥を敢えて受け、最期まで「生」にこだわった石田三成の遺した歌である。
近江佐和山十九万四千石の領民から名君と慕われていた。
熨斗目色:灰色の利いた鈍い濃い青。
二藍:二つの藍で染めた紫、青みがかった薄い紫。
檜皮色:暗い灰色がかった茶色。
黒橡:青みのある黒がかった灰色。
身の丈六尺八寸・五十貫(206cm・188kg)
十八貫の鉄棒(68kg)




