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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第88話「向日葵の予行、あるいは春風が運ぶもの」

「画像データの座標確認のため、現地調査が必要です」

蓮は陽菜に言った。

「現地調査」陽菜は言った。

「はい。フィールドワークの一環として、同行を求めます」

陽菜は少し間を置いた。

「先週のセキュリティの確認の次は、現地調査ですね」

「……そうです」

「どこへ行きますか」

「〇〇市の郊外です。電車で四十分ほどです」

「何があるんですか」

「今は何もありません」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「今は何もない場所に、現地調査が必要なんですか」

「はい」

「わかりました」

陽菜はコートを手に取った。

「行きましょう」

出がけに、桐島が「どこ行くんだ」と言った。

「現地調査です」蓮は言った。

「何の」

「フィールドワーク」

桐島は蓮と陽菜を見た。

「そうか」桐島は笑った。「行ってこい」

電車を乗り継いだ。

四十分ほどで、最寄りの駅についた。

そこからバスで十分だった。

降りた場所は、広い農地の手前だった。

見渡す限り、土だった。

畑だった。

でも今は何も植えられていなかった。

平らな茶色の土が、地平線まで続いていた。

「何もないですね」陽菜は言った。

「今は」

「夏には何かが咲くんですか」

「はい」蓮は畑を見ながら言った。「向日葵です」

陽菜は少し止まった。

「向日葵」

「この畑全体に咲きます。面積から計算すると、おそらく三万本以上になります」

陽菜は土を見た。

芽も出ていなかった。

ただ、土があった。

「蓮さんには、今ここに向日葵が見えていますか」

「見えています」蓮は答えた。「俺のアーカイブには、三ヶ月後の風景がレンダリングされています」

「どんな風景ですか」

蓮は畑を見た。

「高さは平均百五十センチから百八十センチになります。この畑の地形は西側が少し低いので、東向きと南向きの個体が多くなります。遮蔽物がないため、朝の光が差す時間帯は全体が東を向き、午後になると南へ。それが一斉に動く」

「一斉に」

「向日葵は、個別に動くのではなく、群れとして動きます。風が吹けば、波のように揺れます。この畑の広さなら、風の通り道が二本あります。その方向から風が来た時、向日葵が黄色い波になります」

陽菜は土を見た。

何も咲いていない土を見た。

でも、蓮の言葉が、その上に黄色い色をのせていた。

「蓮さんって」陽菜は言った。

「なんですか」

「見えないものを、言葉で見せることができるんですね」

「記録から逆算しているだけです」

「でも、私には今、少し見えます。向日葵の波が」

蓮は陽菜を見た。

陽菜は土を見たまま、少し目を細めていた。

黄色い波を、見ようとしていた。

畑沿いの道を歩いた。

春の風が吹いた。

土の匂いがした。

蓮は少し止まった。

土の匂いだった。

雨上がりの公園の、あの匂いと同じだった。

母とブランコに乗った日の匂いだった。

でも今日は、その記憶を呼び出した時の感触が違った。

痛くなかった。

84話の夜に整理した記憶だった。

「完結した過去」に移動した記憶だった。

その記憶が、今日は懐かしかった。

ただ、懐かしかった。

「どうしましたか」陽菜が言った。

「土の匂いがしました」

「はい」

「昔、こういう匂いを、公園で嗅いだ記憶があります」

「どんな記憶ですか」

「母とブランコに乗った日です。雨上がりで、土の匂いがしていました」

陽菜は少し蓮を見た。

「痛い記憶ですか」

「以前はそうでした」蓮は答えた。「今は、ただ懐かしいです」

「整理できたんですね」

「はい」

陽菜は前を向いた。

「過去が懐かしくなると、未来が楽しくなる気がします」

「どういう意味ですか」

「過去を引きずっていると、前が見えない。でも整理できると、後ろに景色ができる。後ろに景色があると、自分がどこから来たかわかる。どこから来たかわかると、どこへ行きたいかわかる」

蓮はその言葉を聞いた。

「記録の話と、同じですね」

「そうかもしれません」

「過去の記録が積み上がると、未来の方向がわかる」

「そうです」陽菜は少し笑った。「あなたが教えてくれたことです」

畑の端に、小さな木のベンチがあった。

農作業の人のためのものだろうと思った。

二人で座った。

土の風景が続いていた。

風が来た。

春の風だった。

冷たくも、暑くもなかった。

陽菜が蓮の手を握った。

自然な動作だった。

計算していない動作だった。

蓮は少し止まった。

手の温度が伝わってきた。

今年の春の温度だった。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「夏になったら、本当にここに向日葵が咲くんですか」

「咲きます。この農家は毎年、向日葵を植えています。三年前の農業誌に掲載されていました。今年も植える予定があると記録されていました」

「三年前の農業誌」陽菜は笑った。「本当に何でも覚えているんですね」

「農業誌を読んでいた理由は覚えていませんが、内容は全部入っています」

陽菜は土を見た。

「夏に来たいです」

「来られます」

「その時、本当に向日葵が波になりますか」

「風の条件が揃えば、なります」

「条件が揃わなかったら」

「その時は、また来年来ます」

陽菜は少し間を置いた。

「来年も来られる、という前提で話してくれているんですね」

「はい」

「当然のように」

「当然です」

陽菜は手に少し力を込めた。

蓮はその力を感じた。

今夜、ここで言えることがあるのではないか、と思った。

夏を待たなくてもいい。

今、この春の土の匂いの中で。

でも、止まった。

もう少し待ちたいという気持ちがあった。

向日葵が咲く時に言いたいという、理由のないこだわりがあった。

それは記録者としての几帳面さかもしれなかった。

あるいは、夏まで一緒にいる時間を、楽しみたいからかもしれなかった。

どちらでも、今日は待つことにした。

【記録:202X年4月〇日 14:33】

下見完了。

向日葵:不在。

しかし、隣にいる体温の記録が、風景を補完している。

風景は完成していた。向日葵なしで。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「夏に、また来ましょうね」

蓮は少し間を置いた。

「はい」

「約束してください」

「約束として記録します」

陽菜は蓮を見た。

「記録に残ったら、絶対に守りますね」

「はい。一秒も狂わずに」

陽菜は少し笑った。

「じゃあ、約束です」

「約束です」

風が吹いた。

土の匂いがした。

向日葵はなかった。

でも、夏の予感が、春の風の中にあった。

帰り道、電車の中で陽菜が少し眠った。

肩に頭を預けていた。

蓮は動かなかった。

窓の外に、春の景色が流れていた。

田んぼ。畑。川。

全部が、夏に向かっていた。

【記録:202X年4月〇日 17:01】

向日葵畑、下見完了。

夏への約束、記録済み。

今日の体温:陽菜の手。陽菜の肩。春の風。土の匂い。

全部が、今日の記録だった。

向日葵がなくても、今日は完全な一日だった。


第88話 了


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