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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第79話「最初の朝、あるいは定義された熱量」

朝の光が、カーテンの端から差していた。

目が覚めた。

いつも通りの天井だった。

でも、何かが違った。

何が違うか、確認しようとした。

ノートを手に取った。

昨夜のページを開いた。

「22:31」という数字があった。

「二度目の出力、成功。精度:百パーセント。感情の重なり:確認」

夢ではなかった。

記録があった。

記録がある、ということは、起きたことだった。

蓮はノートを閉じた。

「上書きの必要がない」

声に出して言った。

誰も聞いていなかった。

でも言った。

記録は過去のものだった。

でも、昨夜の熱量は現在進行形だった。

更新されていた。

脳内アーカイブの「陽菜」フォルダの状態を確認した。

【フォルダ名:瀬川陽菜。優先度:最優先。……更新。優先度:生命維持レベル。変更日時:昨夜22:31】

生命維持レベル。

三年間、一度も使ったことのない分類だった。

蓮は少し間を置いた。

コーヒーを淹れた。

飲んだ。

今朝のコーヒーの味が、昨日とは違った。

同じ豆だった。

同じ淹れ方だった。

でも、違う味がした。

分析しようとした。

止めた。

今朝は、分析しなくていい。

ただ、飲んだ。

事務所のドアの前に立った。

心拍数を確認した。

【心拍数:八十九。通常時より十四パーセント上昇】

ドアを開ける前から上がっていた。

把手を持った。

回した。

開けた。

陽菜がいた。

いつもより少し早かった。

デスクでパソコンを開いていた。

顔を上げた。

目が合った。

昨夜の記憶が来た。

肩の温かさが来た。

「おはようございます」陽菜が言った。

「おはようございます」蓮は答えた。

普通だった。

普通の声だった。

でも、昨日の「おはようございます」とは違う何かが混ざっていた。

陽菜も同じだった。

普通の声だった。

でも、少し、いつもより声が高かった。

「コーヒー、淹れますか」陽菜は言った。

「お願いします」

陽菜が立ち上がった。

コーヒーメーカーに向かった。

蓮はコートを脱いだ。

鞄をデスクに置いた。

陽菜がカップを持ってきた。

「どうぞ」

受け取った。

指先が触れた。

〇・五秒。

熱量が伝わってきた。

昨夜の鼓動の感触が、指先に戻ってきた。

「ありがとうございます」

「はい」

二人ともそれだけ言って、各自のデスクに向かった。

仕事が始まった。

【記録:202X年〇月〇日 09:03】

陽菜との接触:〇・五秒。

熱量伝導:計測不能。

多幸感:継続確認。

一時間ほど、仕事が続いた。

静かだった。

でも、以前と違う静けさだった。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「瀬川商事の五件目、山田さんの案件ですが」

「はい」

「昨日の分析、義隆会長に見せてもいいですか。あの視点、お父様に伝えたいことがあって」

「構いません」

「ありがとうございます」

仕事の会話だった。

普通の仕事の会話だった。

でも、陽菜の声のトーンが昨日と少し違った。

温かさが一段増していた。

蓮はデータを整理しながら、その違いを感じた。

記録しようとした。

止めた。

記録しなくていい変化だと思った。

ただ感じていればいい変化だと思った。

扉が開いた。

桐島が入ってきた。

「おはよう」桐島は言った。

「おはようございます」二人の声が重なった。

桐島はコートを脱いだ。

コーヒーを取った。

自分の椅子に座った。

しばらく、書類を見ていた。

それから顔を上げた。

蓮を見た。

陽菜を見た。

また蓮を見た。

「なんですか」蓮は言った。

「……お前ら、なんか結界でも張ってるのか」

「結界というのは」

「空気が違う」桐島は言った。「いつもと」

「空気の成分は同じです。温度も湿度も」

「そういう話じゃない」桐島は続けた。「お前の背筋が、いつもより三度くらい緩んでるぞ。角度で言ったら」

「姿勢の制御にエラーは出ていません」

「そういう話でもない」桐島は陽菜を見た。「陽菜さん」

「はい」

「昨日の残業、何かありましたか」

陽菜は少し間を置いた。

「仕事をしていました」

「そうですか」

「はい」

桐島はしばらく二人を交互に見た。

それから小さく笑った。

「そうですか」

それだけ言って、書類に戻った。

事務所が静かになった。

蓮はデータの入力を再開した。

「瀬川商事の案件、進捗を確認させてください」陽菜が言った。声が少し大きかった。

「はい」

「十四件中、八件の分析が完了しています。残り六件は今週中に」

「わかりました」

「桐島さん、法務の書類はいかがですか」

「昨日終わった」桐島は書類から顔を上げた。「お前らの仕事より早く終わるわ」

「ありがとうございます」

仕事の話が続いた。

桐島がデータの確認をする間、蓮はデスクの下でカーソルを動かしていた。

画面を見ていた。

でも、視線の端に陽菜がいた。

陽菜も画面を見ていた。

でも、少しして顔を上げた。

蓮と目が合った。

一秒もなかった。

でも、確かに合った。

二人とも、すぐに画面に戻った。

桐島は書類を見ていた。

何も言わなかった。

でも、口元が少し動いていた。

昼前、桐島が「昼飯を買ってくる」と出ていった。

事務所に二人になった。

「さっき」陽菜は言った。

「はい」

「桐島さんに気づかれましたか」

「気づかれたと思います」

「どう思いますか」

蓮は少し考えた。

「問題ないと思います。桐島さんは余計なことを言わない人です」

「そうですね」陽菜は少し笑った。「でも、ニヤニヤしていましたね」

「していましたね」

二人は少し笑った。

昨日と今日で、笑い方が変わっていた。

同じ場所にいるのに、昨日より近かった。

「今日から、一つだけ変えていいですか」陽菜は言った。

「何をですか」

「仕事中でも、たまに蓮さんと呼ぶことを」

「今もそう呼んでいます」

「そうですね」陽菜は笑った。「では今まで通りで」

「はい」

「でも」陽菜は続けた。「意味が少し変わります」

「どう変わりますか」

「今までは仕事の相棒として。これからは」

「これからは」

「記録してください。答えは、あなたがもう知っているはずなので」

蓮は少し間を置いた。

【記録:202X年〇月〇日 11:44】

陽菜の言葉、記録済み。

答え:既知。

「記録しました」

「ありがとうございます」

夕方になった。

瀬川商事の案件の資料を整理しながら、蓮は思った。

仕事の記録が増えていた。

それと同じ速度で、仕事以外の記録も増えていた。

陽菜の笑い声。指先の温かさ。肩の感触。目が合った一秒。

全部が増えていた。

記録すべきことが、仕事以外にも増えすぎて困っています。

そう思った。

困っている、というのは正確ではなかった。

困っていない。

むしろ、増えることが嬉しかった。

でも「嬉しい」という言葉は、今の感触には少し軽かった。

もっと正確な言葉が、まだなかった。

言葉が追いつかないものが、また一つ増えていた。

【記録:202X年〇月〇日 17:12】

記録すべきことが、仕事以外にも増えすぎて困る。

訂正:困る、ではなく。

答えは、まだ保留にした。


第79話 了


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