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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第78話「沈黙の解像度、あるいは上書きできない一秒」

時計の秒針が鳴っていた。

それだけが聞こえた。

【沈黙継続:十二秒】

蓮の脳内に、カウントが走っていた。

【陽菜の視線:固定。離脱確率:ゼロパーセント。逃げ場:なし】

陽菜は待っていた。

書類を持ったまま。

頬が赤いまま。

待っていた。

以前の蓮なら、この沈黙を「ごまかす」ための言葉を計算していた。

「記録の出力として発言した」という体裁を作れば、この状況を回避できる。

でも今日は、計算がそちらへ向かわなかった。

「どう伝えるか」を計算していた。

計算が、止まっていた。

「陽菜さんは、今の俺が非常に忘れたくない対象です」

そう言えば、一応は成立する。

でも、それでは違う。

「今の角度の陽菜さん」という言葉は、論理で出てきた言葉ではなかった。

感覚から出てきた言葉だった。

同じ感覚から、もう一度出力しようとすると。

【処理フリーズ】

止まった。

【沈黙継続:二十三秒】

秒針が鳴り続けていた。

陽菜は書類をそっとデスクに置いた。

「蓮さん」

「はい」

「一つだけ、試してみませんか」

蓮は陽菜を見た。

陽菜が一歩、近づいた。

蓮との距離が、縮まった。

「記録できないなら」陽菜は言った。「今の私の心拍数、当ててみてください」

陽菜が手を差し出した。

手のひらを上に向けて。

蓮は少し間を置いた。

手を重ねた。

指先が、陽菜の手首に触れた。

脈が伝わってきた。

速かった。

通常よりも、明らかに速かった。

【計測開始:心拍数、推定】

数値が出ようとした。

止めた。

今日は数値じゃない。

速い、という事実だけを感じた。

陽菜の鼓動が、蓮の指先に伝わってきた。

体温があった。

温かかった。

三年前の書類のような冷たさは、何もなかった。

ただ、温かくて、速かった。

「どうですか」陽菜が言った。声が少し低かった。

「速いです」

「蓮さんと同じくらい速いと思います」

蓮は自分の心拍数を確認しようとした。

確認できなかった。

計測範囲を超えていた。

書類が一枚、デスクから落ちた。

カサリという音がした。

二人は、その音で少し我に返った。

でも、手は離れなかった。

「蓮さん」陽菜は言った。

「はい」

「記録だけじゃ足りないことが、他にもあるんですよ」

「どういうことですか」

「今、私の心拍数を数値にしたら、何か伝わりますか」

蓮は少し考えた。

「数値にすると、何か失われます」

「そうです」陽菜は続けた。「温かさとか、速さの意味とか、この手の感触とか。数値にした瞬間に、一番大事なものが消える」

「記録では、残せないものがある」

「残せないものがあります」陽菜は蓮を見た。「でも、残さなくていいものもある。今この瞬間は、記録しなくても消えません。私の中に、あなたの中に、ずっとある」

蓮は陽菜の手を感じた。

脈が伝わってきた。

速い鼓動が、蓮の指先を通って、蓮の中に入ってくるような感覚があった。

データではなかった。

命のようなものだった。

「陽菜さん」蓮は言った。

「はい」

「もう一回、聞いていますか」

「聞いています」

蓮は少し間を置いた。

喉が動かなかった。

記録から出力するのではなく、感覚から出力しようとすると、言葉が来なかった。

でも。

今日、山田という担当者のデータを見た時に気づいたことがあった。

守りたいものがあると、人間は非合理な選択をする。

今の蓮は、非合理に言葉を探していた。

完璧な言葉がなくてもいい。

伝わればいい。

蓮は息を吸った。

「……陽菜さんが」

途切れた。

「はい」陽菜は待っていた。

「好きです」

言った。

事務所が静かになった。

「これは」蓮は続けた。「記録ではなく。今の俺の全データが、そう結論づけています」

「全データが」

「はい。陽菜さんと最初に会った日から、今日まで。全部を照合した結果、俺の優先順位の一位は陽菜さんです。それが今日、言葉として出てきました」

陽菜は蓮を見た。

しばらく、動かなかった。

目が少し潤んでいた。

「蓮さん」

「はい」

「今日、二回目の出力、成功しましたね」

「成功しましたか」

「完璧でした」陽菜は言った。

「完璧ではありません。途切れました」

「途切れたのが完璧でした」陽菜は続けた。「流暢だったら、記録の出力に聞こえました。途切れたから、あなたの言葉に聞こえました」

蓮は少し間を置いた。

「陽菜さんの答えは」

陽菜は蓮を見た。

手が、少し動いた。

蓮の手に、少し力が入った。

「蓮さん」

「はい」

「私も、同じ結論です」

事務所が静かになった。

秒針が、また聞こえた。

でも今度は、秒針の音が違った。

何かを刻んでいる音だった。

二人の時間を、刻んでいる音だった。

しばらく経った。

どのくらい経ったか、蓮はわからなかった。

時間を計測していなかった。

初めてだった。

「合格です」陽菜が言った。

「何がですか」

「蓮さんの二回目の出力が」

「採点があったんですか」

「あなたが記録者なら、私は採点者です」陽菜は言った。「今日の出力は、満点でした」

蓮は少し間を置いた。

「基準はなんですか」

「途切れたこと。それだけです」

陽菜は少し体の力を抜いた。

蓮の肩に、陽菜の頭が触れた。

一瞬だと思った。

でも、離れなかった。

そのまま、そこにあった。

蓮は動かなかった。

動かなくていい、と思った。

今夜は、記録しなくていい。

感じているだけでいい。

【記録:202X年〇月〇日 22:31】

二度目の出力、成功。

精度:百パーセント。

感情の重なり:確認。

蓮は頭の中で、そっと記録した。

でも今夜は、その記録よりも。

肩の温かさの方が、ずっと大きかった。

窓の外の街の音が、遠かった。

事務所の時計が、また刻んでいた。

今夜の秒針の音を、蓮は頭ではなく、別の場所に記録した。

名前のある場所に。

今日ついた名前の場所に。


第78話 了 


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