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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第六章「新しい記録」

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第77話「記録の外側、あるいは零れ落ちる言葉」

月曜日の朝、万年筆を手に取った。

いつもの感触だった。

重みがあった。

でも、今日は少し違った。

土曜日の鞄の軽さが、手に残っていた。

何も持たずに歩いた日の軽さ。

ノートも万年筆も持たなかった日の、手の感触。

万年筆を持ったまま、蓮は少し止まった。

記録を再開する。

でも、ペン先が昨日までの自分とは違う場所を指そうとしている感覚があった。

「篠原」

桐島が来た。

「なんですか」

「顔が違うな」桐島は言った。

「どう違いますか」

「柔らかい」桐島は椅子に座った。「土曜日に何かあったか」

「散歩に行きました」

「陽菜さんと」

「はい」

桐島はコーヒーカップを持ったまま蓮を見た。

「たった一日の散歩で、三年分の顔が変わるか、普通」

「どう変わりましたか」

「お前は今まで、全部を分析しながら話していた。今日は、分析の前に言葉が来ている」

蓮は少し考えた。

「そうかもしれません」

「陽菜さんはいい仕事をするな」

「陽菜さんは何もしていません。俺が勝手に変わっています」

桐島は笑った。

「それが一番、変わった証拠だ」

午前中、瀬川商事の失敗事例のデータを広げた。

過去十年分の新規事業。

成功したものと、失敗したものが並んでいた。

蓮は失敗案件を一つずつ見ていった。

数字が並んでいた。

投資額。期間。撤退時の損失。担当者の判断記録。

五件目を開いた。

【照合開始:202X年〇月。新規事業Eプロジェクト。担当者:山田某。判断経緯の記録】

数字の上では、明らかな判断ミスだった。

継続すればするほど損失が膨らむと、データが示していた時点で、山田という担当者は撤退を選ばなかった。

三ヶ月、続けた。

最終的な損失は、撤退時期を逃したことで倍になった。

以前の蓮なら「判断ミス」で分類していた。

でも今日、止まった。

なぜ山田は続けたのか。

数字が見えていないわけではなかった。記録には「撤退案を検討」という記述があった。

検討して、続けた。

なぜか。

同じ時期の別の記録を確認した。

チームメンバーの記録。

そのプロジェクトには、社内で異動対象になっていたメンバーが三人いた。

プロジェクトが継続している間は、異動が延期されていた。

「陽菜さん」蓮は言った。

「はい」陽菜が顔を上げた。

「五件目の失敗案件、見てもらえますか」

陽菜が来た。

データを見た。

「山田さんの案件ですね。判断ミスが目立つ」

「でも」蓮は続けた。「この時期、彼のチームに異動対象のメンバーがいます。プロジェクトが続いている間は異動が止まっていた」

陽菜は少し止まった。

「つまり」

「効率を考えれば、撤退するべきでした。でも山田さんは、誰かのために時間を稼ごうとしたのかもしれません」

陽菜はデータを見た。

「数字の裏側に、人間がいた」

「はい。以前の俺なら、ミスと分類していました。でも今日は、少し違う分析になりました」

陽菜は蓮を見た。

「土曜日の前のあなたは、この分析をしましたか」

「していません」

「では今日、何かが変わった」

「守りたいものがあると、人間は非合理な選択をすることがある」蓮は言った。「それを理解できるようになった、ということかもしれません」

陽菜は少し間を置いた。

「あなた自身が、守りたいものを持ったからですか」

蓮は答えなかった。

でも否定しなかった。

陽菜は自分のデスクに戻った。

でも、口元が少し動いていた。

夜になった。

桐島が帰った。

二人で残業が続いた。

資料の整理が佳境だった。

陽菜が書類を持ち、手書きのメモと照合していた。

蓮はデータを入力していた。

「このページ、数値が合いません」陽菜は言った。「蓮さん、見てもらえますか」

「どこですか」

陽菜が書類を傾けた。

光の角度が変わった。

陽菜の横顔が、ライトの光を受けた。

髪が一束、頬に落ちていた。

陽菜は気にせず書類を見ていた。

それから、その一束を耳にかけた。

自然な動作だった。

何でもない動作だった。

蓮はその動作を見ていた。

処理が走った。

でも今日は、処理の前に何かが来た。

口が動いた。

「今の角度の陽菜さんは」

陽菜が振り向いた。

「え?」

蓮は気づいた。

自分が言いかけていることに。

止めようとした。

でも止まらなかった。

「非常に、忘れたくないです」

事務所が静かになった。

陽菜は蓮を見た。

蓮は自分が何を言ったか、もう一度確認した。

「今の角度の陽菜さんは非常に忘れたくないです」

言っていた。

完全に言っていた。

【記録:202X年〇月〇日 21:44】

意図しない出力、発生。

内容:「今の角度の陽菜さんは非常に忘れたくないです」。

分類:本音。

処理経路:通常の記録出力ではない。感情から直接出力された可能性が高い。

蓮は少し間を置いた。

「今の発言は」蓮は言った。「記録としての出力ではありません」

「……何の出力ですか」陽菜は言った。声が少し変わっていた。

「本音です」

陽菜は書類を持ったまま、蓮を見ていた。

頬が、少し赤かった。

蓮の心拍数を確認しようとした。

計測できなかった。

上がりすぎていて、通常の計測範囲を超えていた。

【心拍数:計測不能なほど上昇】

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「今の、もう一回言ってください」

蓮は沈黙した。

もう一回言う、というのは。

「今の角度の陽菜さんは」蓮は言い始めた。

「はい」

「非常に」

「はい」

蓮は止まった。

「非常に」

止まった。

もう一回言おうとした。

でも言えなかった。

一回目は、意図せず出てきた言葉だった。

二回目は、意図して言わなければならない。

それが、一回目よりずっと難しかった。

陽菜は待っていた。

書類を持ったまま。

頬が赤いまま。

待っていた。

蓮は沈黙を続けた。

事務所の時計が、秒を刻んでいた。


第77話 了


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