第76話「記録なき散歩、あるいは五感の目覚め」
鞄が軽かった。
待ち合わせ場所に向かいながら、ずっとそのことが気になっていた。
鞄の中に、ノートがなかった。
万年筆もなかった。
メモ帳もなかった。
いつもの重みが、ない。
左手が無意識に動いた。
鞄の外側を触った。
ノートの硬い背表紙を探していた。
なかった。
当たり前だった。今日は持ってこなかった。
蓮は歩きながら、脳内の処理を確認した。
【気温:14度。風速:2.3メートル。通行人数:過去3分間で47名。うち傘所持者:3名。降雨確率、現時点で】
止めた。
記録しなくていい、と思った。
でも、止めるのが難しかった。
記録するのをやめると、世界がそのまま流れてくる感覚があった。
処理されないまま、全部が来る。
記録しないということは、世界をそのまま受け止めるということだ。
それは、これほどまでに無防備なのか。
「蓮さん」
声がした。
陽菜だった。
駅前の広場にいた。
コートを着ていた。
今日のコートは、いつもと違う色だった。
少し明るい。
「来ました」
「寒くなかったですか」
「寒かったですが、気温を計算しようとして止めました」
陽菜は少し笑った。
「いいスタートです」
蓮はその笑顔を見た。
脳内の数値が、少し静かになった。
商店街は、にぎやかだった。
土曜日の昼前だった。
人が多かった。
声が多かった。
匂いが多かった。
蓮は歩きながら、処理が始まろうとするのを感じた。
【左側の店舗、ソースの匂い。原材料から推測して】
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「あそこのコロッケ屋さん、見てください」
小さな店だった。
揚げたてのコロッケが並んでいた。
油の匂いがした。
「食べますか」陽菜は言った。
「はい」
陽菜が二つ買った。
紙に包まれたコロッケを渡された。
持った。
熱かった。
「食べてください」陽菜は言った。「数値化する前に」
蓮は口をつけた。
熱かった。
外側がカリカリだった。
中が柔らかかった。
塩味とソースの味。
蓮の脳内で何かが走ろうとした。
熱さが、それを追い越した。
熱いという感覚が、分析より速く来た。
「どうですか」陽菜は自分のコロッケを食べながら言った。
「熱い」
「それだけですか」
「熱い、が最初に来ました。その後に、おいしいが来ました」
陽菜は少し目を細めた。
「今日初めてですね、その順番」
「そうかもしれません」
商店街を歩き続けた。
花屋があった。
陽菜が止まった。
「この花、好きです」陽菜は言った。
黄色い花だった。
名前を確認しようとした。
陽菜が言った。「名前は調べなくていいです。何色が好きですか、という話です」
「何色も同じに見えていました。でも今日は、この黄色が明るいと思います」
「なぜ明るいと思いましたか」
「今日の光に合っている気がします」
陽菜は花を見た。
「そうですね」
花屋を離れた。
少し進んだところで、陽菜が空を見た。
「この匂い、どうですか」
「何の匂いですか」
「土と草の匂いです。どこかで雨が降ったのかもしれません」
蓮は空気を吸った。
湿った匂いがした。
土の匂い。
遠くで雨が降っているのかもしれなかった。
「懐かしい匂いがします」蓮は言った。
「懐かしい?」
「子供の頃、雨上がりに公園で遊んだ記憶と、同じ匂いです」
陽菜は蓮を見た。
「いい記憶ですか」
「はい」蓮は答えた。「母と行った公園です。今日の記録はありません。でも、あの頃の記録と、今日の匂いが、同じ感触として来ました」
「それは」陽菜は少し間を置いた。「記憶が繋がったということですね」
「そうかもしれません」
公園に入った。
広い公園だった。
木が多かった。
ベンチがあった。
子供が走っていた。
犬を連れた人がいた。
陽菜が歩きながら、遠くを指差した。
「あそこに池があります。行きましょう」
池のそばまで行った。
水面が光っていた。
風が吹くたびに、光が揺れた。
「魚がいます」陽菜が言った。
「何匹いますか」
「数えなくていいです」陽菜は言った。「ただ、いるということを見てください」
蓮は水面を見た。
数えようとした。
止めた。
ただ、見た。
魚が泳いでいた。
水が揺れていた。
光が揺れていた。
風が来た。
肌に当たった。
冷たかった。
でも、今日の冷たさは気温の数値ではなかった。
ただ、冷たかった。
夕方になった。
光が傾いた。
オレンジ色になった。
ベンチに座った。
二人で、夕暮れを見た。
蓮は今日一日を振り返った。
記録がなかった。
数値がなかった。
でも。
コロッケの熱さが、まだ手に残っていた。
黄色い花の色が、まだ目の中にあった。
土の匂いが、まだ肺の中にあった。
陽菜の笑い声が、まだ耳の近くにあった。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「ノートがなくても、今日のことを覚えていられそうですか」
蓮は少し考えた。
「覚えています。今日の全部が、いつもと違う場所に入っています」
「いつもと違う場所」
「頭の中のノートではなく、別の場所です。どこかは、まだわかりません」
陽菜は夕暮れを見た。
「それが『心』という場所かもしれません」
蓮は少し間を置いた。
「心に記録する、というのは」
「分析する前に感じる、ということです。頭が処理するより前に、もう刻まれている。そういう記録のことです」
蓮は夕暮れを見た。
【ノートがなくても、忘れない。いや、ノートがないからこそ、忘れたくないと思うのか】
その言葉が、頭の中を通った。
記録しようとした。
止めた。
この言葉は、ノートに書かなくていい言葉だと思った。
自分の中に、そのままあればいい言葉だった。
【脳内記録、修正】
【202X年〇月〇日。散歩。記録:なし。……修正。記録場所:頭の中ではなく、別の場所。名称:未定。ただし、鮮明度:最高】
陽菜が立ち上がった。
「そろそろ帰りましょうか」
「はい」
帰り道、二人は並んで歩いた。
しばらく、何も言わなかった。
「どうでしたか」陽菜が言った。「記録しない一日は」
蓮は少し考えた。
「悪くなかったです」
陽菜は少し止まった。
「悪くなかった、というのは」
「俺の評価軸では、それが最高評価に近い言葉です」
陽菜は少し笑った。
「普通の人なら『楽しかった』と言うところですね」
「楽しかったです」蓮は言った。「でも、それ以上の何かがありました。まだ言葉にならない何かが」
「何だと思いますか」
「今日の終わりに気づいたことがあります」
「なんですか」
「記録するのは、忘れないためだと思っていました。でも今日、記録しなかったのに、忘れたくないという気持ちが来ました。その順番が、逆でした」
陽菜は歩きながら蓮を見た。
「忘れたくないから、大切だということに気づいた」
「そうかもしれません」
陽菜は前を向いた。
少し間を置いた。
「また来週、散歩しませんか」
蓮は少し考えた。
「カレンダーの土曜日の欄、空けておきます」
「記録するんですか」
「空けておくことを、記録します」
陽菜はまた笑った。
今日一番の笑い声だった。
その声が、夜の空気に溶けた。
蓮はその声を、頭ではなく、別の場所に記録した。
名前のない場所に。
でも確かにある場所に。
第76話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




