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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第76話「記録なき散歩、あるいは五感の目覚め」

鞄が軽かった。

待ち合わせ場所に向かいながら、ずっとそのことが気になっていた。

鞄の中に、ノートがなかった。

万年筆もなかった。

メモ帳もなかった。

いつもの重みが、ない。

左手が無意識に動いた。

鞄の外側を触った。

ノートの硬い背表紙を探していた。

なかった。

当たり前だった。今日は持ってこなかった。

蓮は歩きながら、脳内の処理を確認した。

【気温:14度。風速:2.3メートル。通行人数:過去3分間で47名。うち傘所持者:3名。降雨確率、現時点で】

止めた。

記録しなくていい、と思った。

でも、止めるのが難しかった。

記録するのをやめると、世界がそのまま流れてくる感覚があった。

処理されないまま、全部が来る。

記録しないということは、世界をそのまま受け止めるということだ。

それは、これほどまでに無防備なのか。

「蓮さん」

声がした。

陽菜だった。

駅前の広場にいた。

コートを着ていた。

今日のコートは、いつもと違う色だった。

少し明るい。

「来ました」

「寒くなかったですか」

「寒かったですが、気温を計算しようとして止めました」

陽菜は少し笑った。

「いいスタートです」

蓮はその笑顔を見た。

脳内の数値が、少し静かになった。

商店街は、にぎやかだった。

土曜日の昼前だった。

人が多かった。

声が多かった。

匂いが多かった。

蓮は歩きながら、処理が始まろうとするのを感じた。

【左側の店舗、ソースの匂い。原材料から推測して】

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「あそこのコロッケ屋さん、見てください」

小さな店だった。

揚げたてのコロッケが並んでいた。

油の匂いがした。

「食べますか」陽菜は言った。

「はい」

陽菜が二つ買った。

紙に包まれたコロッケを渡された。

持った。

熱かった。

「食べてください」陽菜は言った。「数値化する前に」

蓮は口をつけた。

熱かった。

外側がカリカリだった。

中が柔らかかった。

塩味とソースの味。

蓮の脳内で何かが走ろうとした。

熱さが、それを追い越した。

熱いという感覚が、分析より速く来た。

「どうですか」陽菜は自分のコロッケを食べながら言った。

「熱い」

「それだけですか」

「熱い、が最初に来ました。その後に、おいしいが来ました」

陽菜は少し目を細めた。

「今日初めてですね、その順番」

「そうかもしれません」

商店街を歩き続けた。

花屋があった。

陽菜が止まった。

「この花、好きです」陽菜は言った。

黄色い花だった。

名前を確認しようとした。

陽菜が言った。「名前は調べなくていいです。何色が好きですか、という話です」

「何色も同じに見えていました。でも今日は、この黄色が明るいと思います」

「なぜ明るいと思いましたか」

「今日の光に合っている気がします」

陽菜は花を見た。

「そうですね」

花屋を離れた。

少し進んだところで、陽菜が空を見た。

「この匂い、どうですか」

「何の匂いですか」

「土と草の匂いです。どこかで雨が降ったのかもしれません」

蓮は空気を吸った。

湿った匂いがした。

土の匂い。

遠くで雨が降っているのかもしれなかった。

「懐かしい匂いがします」蓮は言った。

「懐かしい?」

「子供の頃、雨上がりに公園で遊んだ記憶と、同じ匂いです」

陽菜は蓮を見た。

「いい記憶ですか」

「はい」蓮は答えた。「母と行った公園です。今日の記録はありません。でも、あの頃の記録と、今日の匂いが、同じ感触として来ました」

「それは」陽菜は少し間を置いた。「記憶が繋がったということですね」

「そうかもしれません」

公園に入った。

広い公園だった。

木が多かった。

ベンチがあった。

子供が走っていた。

犬を連れた人がいた。

陽菜が歩きながら、遠くを指差した。

「あそこに池があります。行きましょう」

池のそばまで行った。

水面が光っていた。

風が吹くたびに、光が揺れた。

「魚がいます」陽菜が言った。

「何匹いますか」

「数えなくていいです」陽菜は言った。「ただ、いるということを見てください」

蓮は水面を見た。

数えようとした。

止めた。

ただ、見た。

魚が泳いでいた。

水が揺れていた。

光が揺れていた。

風が来た。

肌に当たった。

冷たかった。

でも、今日の冷たさは気温の数値ではなかった。

ただ、冷たかった。

夕方になった。

光が傾いた。

オレンジ色になった。

ベンチに座った。

二人で、夕暮れを見た。

蓮は今日一日を振り返った。

記録がなかった。

数値がなかった。

でも。

コロッケの熱さが、まだ手に残っていた。

黄色い花の色が、まだ目の中にあった。

土の匂いが、まだ肺の中にあった。

陽菜の笑い声が、まだ耳の近くにあった。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「ノートがなくても、今日のことを覚えていられそうですか」

蓮は少し考えた。

「覚えています。今日の全部が、いつもと違う場所に入っています」

「いつもと違う場所」

「頭の中のノートではなく、別の場所です。どこかは、まだわかりません」

陽菜は夕暮れを見た。

「それが『心』という場所かもしれません」

蓮は少し間を置いた。

「心に記録する、というのは」

「分析する前に感じる、ということです。頭が処理するより前に、もう刻まれている。そういう記録のことです」

蓮は夕暮れを見た。

【ノートがなくても、忘れない。いや、ノートがないからこそ、忘れたくないと思うのか】

その言葉が、頭の中を通った。

記録しようとした。

止めた。

この言葉は、ノートに書かなくていい言葉だと思った。

自分の中に、そのままあればいい言葉だった。

【脳内記録、修正】

【202X年〇月〇日。散歩。記録:なし。……修正。記録場所:頭の中ではなく、別の場所。名称:未定。ただし、鮮明度:最高】

陽菜が立ち上がった。

「そろそろ帰りましょうか」

「はい」

帰り道、二人は並んで歩いた。

しばらく、何も言わなかった。

「どうでしたか」陽菜が言った。「記録しない一日は」

蓮は少し考えた。

「悪くなかったです」

陽菜は少し止まった。

「悪くなかった、というのは」

「俺の評価軸では、それが最高評価に近い言葉です」

陽菜は少し笑った。

「普通の人なら『楽しかった』と言うところですね」

「楽しかったです」蓮は言った。「でも、それ以上の何かがありました。まだ言葉にならない何かが」

「何だと思いますか」

「今日の終わりに気づいたことがあります」

「なんですか」

「記録するのは、忘れないためだと思っていました。でも今日、記録しなかったのに、忘れたくないという気持ちが来ました。その順番が、逆でした」

陽菜は歩きながら蓮を見た。

「忘れたくないから、大切だということに気づいた」

「そうかもしれません」

陽菜は前を向いた。

少し間を置いた。

「また来週、散歩しませんか」

蓮は少し考えた。

「カレンダーの土曜日の欄、空けておきます」

「記録するんですか」

「空けておくことを、記録します」

陽菜はまた笑った。

今日一番の笑い声だった。

その声が、夜の空気に溶けた。

蓮はその声を、頭ではなく、別の場所に記録した。

名前のない場所に。

でも確かにある場所に。


第76話 了 


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