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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第五章「清算と反撃の三週間」

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第70話「平穏な十二日、あるいは本当の卒業」

ドアを開けると、老婦人がいた。

七十代くらいだった。

小さなバッグを持っていた。

「すみません、こちらが『Margin Notes』さんですか」

「はい」陽菜が答えた。「どうぞ、お座りください」

老婦人は座った。

少し緊張していた。

「こんなことを頼んでいいものかと思って、ずっと迷っていたんですが」

「どんなことでも」陽菜は言った。「記録を使ってお役に立てることなら」

「三十年前のことなんです」老婦人は言った。「主人と、よく散歩した坂道があって。主人が亡くなって十年になるんですが、あの坂の名前が、どうしても思い出せなくて」

「坂の名前を」

「主人が必ず言っていたんです。『あの坂は〇〇坂って言うんだぞ』って。でも私、覚えていなくて。今更こんなことと思うんですが、もう一度あの名前を聞きたくて」

老婦人は少し目を伏せた。

「思い出の場所の、名前だけ教えてもらえたら、それで十分なんです」

蓮は老婦人を見た。

「場所の特徴を教えてもらえますか。当時の景色でも、近くにあった建物でも」

老婦人は少し考えた。

「桜の木が何本かあって。坂の途中に、古いお豆腐屋さんがあって。下の方に郵便局が見えました」

蓮は記録を走らせた。

【検索開始:三十年前の地形記録。桜並木のある坂道。豆腐店の営業記録。郵便局との位置関係。周辺地域の自治体資料】

三年前、帝都物産の書類と一緒に見ていた資料の中に、都内の地形変化に関する行政資料があった。

再開発の前後の地図。当時の商店リスト。

照合した。

「〇〇区の〇〇坂です」蓮は言った。「今は坂の途中に小さな公園があります。豆腐屋さんは閉まりましたが、桜の木は今も残っています」

老婦人が顔を上げた。

「……そうです」老婦人の声が変わった。「〇〇坂、そうでした。主人がいつも誇らしそうに言っていました。『〇〇坂』って」

老婦人の目が潤んだ。

「ありがとうございます」

「いえ」蓮は答えた。

「何十年も前のことを、どうやって」

「資料で読んでいました。当時の地図が残っていました」

老婦人は立ち上がった。

「今日、行ってきます」老婦人は言った。「桜がまだあるなら、主人に会えるような気がして」

老婦人が出ていった。

ドアが閉まった。

蓮は少し間を置いた。

「どうでしたか」陽菜が言った。

「脳の負荷が、心地よかったです」

陽菜は少し首を傾けた。

「心地よい負荷というのは」

「帝都物産の記録を出力する時は、負荷が重かった。でも今日は軽かった。同じ記録を使っているのに、使い方が違う」

「誰かの思い出を補完するために使うのと、敵を追い詰めるために使うのとでは、違いますか」

「違います」蓮はノートを閉じた。「同じ記憶が、こちらに来るのは温かくて、あちらに行くのは冷たかった。今日初めて気づきました」

陽菜はデスクに戻りながら、少し笑った。

「それが今日の最初の記録ですね」

「はい」

昼前、買い物に出た。

いつもの道だった。

信号待ちだった。

前に誰かが立っていた。

コートを着た、中年の男性。

蓮は一秒で照合した。

黒川誠だった。

三年前に蓮を解雇した、元上司だった。

執行猶予付きの判決が出て、今は一般人に戻っているはずだった。

黒川も蓮に気づいた。

目が合った。

黒川の体が、わずかに固まった。

逃げようとしたが、信号がまだ赤だった。

行き場がなかった。

蓮は黒川を見た。

何かが来るかと思った。

怒りか。憎しみか。あるいは満足か。

何も来なかった。

ただ、静かだった。

【記録照合:黒川誠。現在の状況:執行猶予中。社会的信用、毀損済み。今後の更新予定:なし】

更新予定なし。

そうだ、と蓮は思った。

このページは、もう開く必要がない。

「黒川さん」蓮は言った。

黒川が固まった。

「あなたのことも、記録しています」蓮は続けた。「でも、もうそのページを開く必要はなさそうです。私にとって、あなたはもう更新されない過去ですから」

黒川は何も言わなかった。

信号が青になった。

蓮は歩き出した。

黒川の横を通った。

振り返らなかった。

「許す」という言葉が浮かんだ。

でも、それとも少し違った。

許すというのは、まだ何かが残っている時に使う言葉だ。

蓮の中に、もう何も残っていなかった。

完了していた。

ただ、それだけだった。

夕方、事務所に戻った。

陽菜が「顔色が違いますね」と言った。

「街で黒川部長に会いました」

陽菜が少し止まった。

「どうでしたか」

「何も来ませんでした」蓮は答えた。「怒りも、復讐心も、満足感も。ただ、終わっていた」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「それは」陽菜は静かに言った。「本当の意味で終わった、ということですね」

「はい」

「よかった」

「よかった、というのは」

「あなたが、過去に囚われていないということが」陽菜は続けた。「私、ずっと少し心配していました。全部覚えているということは、全部抱えているということだから。黒川さんのことも、お母さんのことも、全部」

蓮は陽菜を見た。

「全部あります。でも今日気づいたことがあります」

「何ですか」

「記録があることと、それに縛られることは、別のことです。棚にある本と、今読んでいる本は違います。三年前の記録は棚にあります。今俺が読んでいるのは、別の本です」

陽菜は少し間を置いた。

「今読んでいる本は、何ですか」

蓮は少し考えた。

「まだ書き途中です」

陽菜は笑った。

「それがいいです」

夜、桐島が「屋上に行こう」と言った。

理由は言わなかった。

三人で屋上に出た。

夜景が広がっていた。

都心の光だった。

桐島が缶ビールを三本持ってきた。

「俺が飲む分しかないぞ」桐島は言った。「お前らはコーヒーでも飲め」

でも三本配った。

蓮は受け取った。

一口飲んだ。

苦かった。

でも、今夜は飲んでみたかった。

「明日が高梨さんの異動日か」桐島は言った。

「はい」

「じゃあ今夜が最後の日だな。カウントダウンの」

「そうですね」

桐島は夜景を見た。

「この三ヶ月、いろいろあったな」

「はい」

「お前が来た時、俺はただの腕のいいコンサルだと思っていた。記憶力が凄いやつ、くらいの認識だった」桐島は続けた。「でも実際は、そんな話じゃなかった」

「どんな話でしたか」

「お前は、記録することで生きていた。記録することが、お前の生きる理由だった。それがわかったのは、わりと最近だ」

蓮は缶を持ったまま、夜景を見た。

「一つ聞いていいですか」桐島は言った。

「はい」

「明日から何を数えるんだ。カウントダウンが終わったら」

蓮は少し考えた。

「これからは、増えていくものを数えます」

「増えていくもの」

「三年前の記録は、全部揃いました。もう増えません。でもこれからの記録は、毎日増えます。陽菜さんとの記録も、新しい依頼人の記録も、桐島さんとの記録も」

桐島は少し間を置いた。

「……そうか」

陽菜が空を見た。

「星が出ています」

「そうですね」蓮は空を見た。

「蓮さん、今日の星の数を数えましたか」

「数えていません」

「珍しい」

「今日は数えなくていいと思いました」蓮は答えた。「見ているだけで十分でした」

陽菜は少し蓮を見た。

それから星を見た。

三人は少し、黙っていた。

夜風が吹いた。

桐島が缶を置いた。

「俺はそろそろ中に入る。足腰が冷える」桐島は立ち上がった。「お前らはゆっくりしていろ」

桐島が屋上のドアを開けた。

閉まった。

二人だけになった。

「カウントダウン、残り一日です」陽菜が言った。

「はい」

「どんな気持ちですか」

蓮は少し考えた。

「三年前、段ボール一つで会社を出た時、この日が来るとは思っていませんでした」

「でも来た」

「来ました」

陽菜は蓮の隣に来た。

夜景を一緒に見た。

事務所に戻った。

ノートを開いた。

最後のページだった。

万年筆を持った。

「0」と書こうとした。

止まった。

明日書こうと思った。

ゼロは、明日書く数字だった。

今夜は別のものを書く夜だと思った。

万年筆が、ゆっくりと動いた。

文字ではなかった。

線だった。

陽菜の横顔だった。

うまくはなかった。

でも、今夜屋上で見た横顔が、紙の上にあった。

線が続いた。

星も少し書いた。

夜景の光も少し書いた。

書き終えた。

ノートを見た。

記録とは少し違うものが、そこにあった。

でも、これも記録だと思った。

事実ではなく、感触の記録。

数字ではなく、温度の記録。

【記録:202X年〇月〇日 23:58】

空白の三年、明日完結。

今夜の星、数えず。

今夜の陽菜の横顔、スケッチ済み。

カウントダウン:1日。

明日、「0」を書く。

そしてその次のページから、新しい記録が始まる。

今夜は、それでよかった。


第70話 了 


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