第70話「平穏な十二日、あるいは本当の卒業」
ドアを開けると、老婦人がいた。
七十代くらいだった。
小さなバッグを持っていた。
「すみません、こちらが『Margin Notes』さんですか」
「はい」陽菜が答えた。「どうぞ、お座りください」
老婦人は座った。
少し緊張していた。
「こんなことを頼んでいいものかと思って、ずっと迷っていたんですが」
「どんなことでも」陽菜は言った。「記録を使ってお役に立てることなら」
「三十年前のことなんです」老婦人は言った。「主人と、よく散歩した坂道があって。主人が亡くなって十年になるんですが、あの坂の名前が、どうしても思い出せなくて」
「坂の名前を」
「主人が必ず言っていたんです。『あの坂は〇〇坂って言うんだぞ』って。でも私、覚えていなくて。今更こんなことと思うんですが、もう一度あの名前を聞きたくて」
老婦人は少し目を伏せた。
「思い出の場所の、名前だけ教えてもらえたら、それで十分なんです」
蓮は老婦人を見た。
「場所の特徴を教えてもらえますか。当時の景色でも、近くにあった建物でも」
老婦人は少し考えた。
「桜の木が何本かあって。坂の途中に、古いお豆腐屋さんがあって。下の方に郵便局が見えました」
蓮は記録を走らせた。
【検索開始:三十年前の地形記録。桜並木のある坂道。豆腐店の営業記録。郵便局との位置関係。周辺地域の自治体資料】
三年前、帝都物産の書類と一緒に見ていた資料の中に、都内の地形変化に関する行政資料があった。
再開発の前後の地図。当時の商店リスト。
照合した。
「〇〇区の〇〇坂です」蓮は言った。「今は坂の途中に小さな公園があります。豆腐屋さんは閉まりましたが、桜の木は今も残っています」
老婦人が顔を上げた。
「……そうです」老婦人の声が変わった。「〇〇坂、そうでした。主人がいつも誇らしそうに言っていました。『〇〇坂』って」
老婦人の目が潤んだ。
「ありがとうございます」
「いえ」蓮は答えた。
「何十年も前のことを、どうやって」
「資料で読んでいました。当時の地図が残っていました」
老婦人は立ち上がった。
「今日、行ってきます」老婦人は言った。「桜がまだあるなら、主人に会えるような気がして」
老婦人が出ていった。
ドアが閉まった。
蓮は少し間を置いた。
「どうでしたか」陽菜が言った。
「脳の負荷が、心地よかったです」
陽菜は少し首を傾けた。
「心地よい負荷というのは」
「帝都物産の記録を出力する時は、負荷が重かった。でも今日は軽かった。同じ記録を使っているのに、使い方が違う」
「誰かの思い出を補完するために使うのと、敵を追い詰めるために使うのとでは、違いますか」
「違います」蓮はノートを閉じた。「同じ記憶が、こちらに来るのは温かくて、あちらに行くのは冷たかった。今日初めて気づきました」
陽菜はデスクに戻りながら、少し笑った。
「それが今日の最初の記録ですね」
「はい」
昼前、買い物に出た。
いつもの道だった。
信号待ちだった。
前に誰かが立っていた。
コートを着た、中年の男性。
蓮は一秒で照合した。
黒川誠だった。
三年前に蓮を解雇した、元上司だった。
執行猶予付きの判決が出て、今は一般人に戻っているはずだった。
黒川も蓮に気づいた。
目が合った。
黒川の体が、わずかに固まった。
逃げようとしたが、信号がまだ赤だった。
行き場がなかった。
蓮は黒川を見た。
何かが来るかと思った。
怒りか。憎しみか。あるいは満足か。
何も来なかった。
ただ、静かだった。
【記録照合:黒川誠。現在の状況:執行猶予中。社会的信用、毀損済み。今後の更新予定:なし】
更新予定なし。
そうだ、と蓮は思った。
このページは、もう開く必要がない。
「黒川さん」蓮は言った。
黒川が固まった。
「あなたのことも、記録しています」蓮は続けた。「でも、もうそのページを開く必要はなさそうです。私にとって、あなたはもう更新されない過去ですから」
黒川は何も言わなかった。
信号が青になった。
蓮は歩き出した。
黒川の横を通った。
振り返らなかった。
「許す」という言葉が浮かんだ。
でも、それとも少し違った。
許すというのは、まだ何かが残っている時に使う言葉だ。
蓮の中に、もう何も残っていなかった。
完了していた。
ただ、それだけだった。
夕方、事務所に戻った。
陽菜が「顔色が違いますね」と言った。
「街で黒川部長に会いました」
陽菜が少し止まった。
「どうでしたか」
「何も来ませんでした」蓮は答えた。「怒りも、復讐心も、満足感も。ただ、終わっていた」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「それは」陽菜は静かに言った。「本当の意味で終わった、ということですね」
「はい」
「よかった」
「よかった、というのは」
「あなたが、過去に囚われていないということが」陽菜は続けた。「私、ずっと少し心配していました。全部覚えているということは、全部抱えているということだから。黒川さんのことも、お母さんのことも、全部」
蓮は陽菜を見た。
「全部あります。でも今日気づいたことがあります」
「何ですか」
「記録があることと、それに縛られることは、別のことです。棚にある本と、今読んでいる本は違います。三年前の記録は棚にあります。今俺が読んでいるのは、別の本です」
陽菜は少し間を置いた。
「今読んでいる本は、何ですか」
蓮は少し考えた。
「まだ書き途中です」
陽菜は笑った。
「それがいいです」
夜、桐島が「屋上に行こう」と言った。
理由は言わなかった。
三人で屋上に出た。
夜景が広がっていた。
都心の光だった。
桐島が缶ビールを三本持ってきた。
「俺が飲む分しかないぞ」桐島は言った。「お前らはコーヒーでも飲め」
でも三本配った。
蓮は受け取った。
一口飲んだ。
苦かった。
でも、今夜は飲んでみたかった。
「明日が高梨さんの異動日か」桐島は言った。
「はい」
「じゃあ今夜が最後の日だな。カウントダウンの」
「そうですね」
桐島は夜景を見た。
「この三ヶ月、いろいろあったな」
「はい」
「お前が来た時、俺はただの腕のいいコンサルだと思っていた。記憶力が凄いやつ、くらいの認識だった」桐島は続けた。「でも実際は、そんな話じゃなかった」
「どんな話でしたか」
「お前は、記録することで生きていた。記録することが、お前の生きる理由だった。それがわかったのは、わりと最近だ」
蓮は缶を持ったまま、夜景を見た。
「一つ聞いていいですか」桐島は言った。
「はい」
「明日から何を数えるんだ。カウントダウンが終わったら」
蓮は少し考えた。
「これからは、増えていくものを数えます」
「増えていくもの」
「三年前の記録は、全部揃いました。もう増えません。でもこれからの記録は、毎日増えます。陽菜さんとの記録も、新しい依頼人の記録も、桐島さんとの記録も」
桐島は少し間を置いた。
「……そうか」
陽菜が空を見た。
「星が出ています」
「そうですね」蓮は空を見た。
「蓮さん、今日の星の数を数えましたか」
「数えていません」
「珍しい」
「今日は数えなくていいと思いました」蓮は答えた。「見ているだけで十分でした」
陽菜は少し蓮を見た。
それから星を見た。
三人は少し、黙っていた。
夜風が吹いた。
桐島が缶を置いた。
「俺はそろそろ中に入る。足腰が冷える」桐島は立ち上がった。「お前らはゆっくりしていろ」
桐島が屋上のドアを開けた。
閉まった。
二人だけになった。
「カウントダウン、残り一日です」陽菜が言った。
「はい」
「どんな気持ちですか」
蓮は少し考えた。
「三年前、段ボール一つで会社を出た時、この日が来るとは思っていませんでした」
「でも来た」
「来ました」
陽菜は蓮の隣に来た。
夜景を一緒に見た。
事務所に戻った。
ノートを開いた。
最後のページだった。
万年筆を持った。
「0」と書こうとした。
止まった。
明日書こうと思った。
ゼロは、明日書く数字だった。
今夜は別のものを書く夜だと思った。
万年筆が、ゆっくりと動いた。
文字ではなかった。
線だった。
陽菜の横顔だった。
うまくはなかった。
でも、今夜屋上で見た横顔が、紙の上にあった。
線が続いた。
星も少し書いた。
夜景の光も少し書いた。
書き終えた。
ノートを見た。
記録とは少し違うものが、そこにあった。
でも、これも記録だと思った。
事実ではなく、感触の記録。
数字ではなく、温度の記録。
【記録:202X年〇月〇日 23:58】
空白の三年、明日完結。
今夜の星、数えず。
今夜の陽菜の横顔、スケッチ済み。
カウントダウン:1日。
明日、「0」を書く。
そしてその次のページから、新しい記録が始まる。
今夜は、それでよかった。
第70話 了
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