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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第四章「記録の向こう側」

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第50話「記録の栞、幸福の定義」

朝が来た。

蓮は目が覚めた瞬間、いつもの検索クエリを走らせようとした。

止まった。

【検索クエリ:帝都物産・動向】

結果:該当案件なし。

【検索クエリ:永瀬・水野・大河原・工藤・佐久間】

結果:アーカイブ済み。参照不要。

【検索クエリ:黒川・石倉・母・麻衣】

結果:同上。

三年間、起きた瞬間から動き続けていた検索が、一秒で終わった。

静かだった。

朝の静けさとは違う種類の静けさだった。

何もない、という静けさ。

戦う相手がいない朝は、こういう感触なのかと、蓮は思った。

起き上がった。

コーヒーを淹れようとして、棚を確認した。

陽菜が先週持ってきた豆が、残り少なくなっていた。

【記録:陽菜が好む焙煎の深さ、中深煎り。豆の産地、エチオピア系を好む傾向あり。在庫、あと三杯分程度】

今日、補充しよう。

そう思った。

それが、今朝の最初の「タスク」だった。

三年前と、全く違う朝だった。

桐島が来たのは、昼前だった。

紙袋を持っていた。

「渡したいものがある」桐島はテーブルに紙袋を置いた。

蓮は中を見た。

細長い箱が入っていた。

開けた。

万年筆だった。

黒軸の、シンプルなもの。でも手に取ると、重さが違った。

「三年前、お前が欲しそうにしてたやつだ」桐島は言った。「ショーウィンドウを五秒見て、それから黙って通り過ぎたろ」

蓮は万年筆を見た。

「覚えていたんですか」

「俺の記憶は普通だが、部下が欲しそうにしているものくらいは覚える」

蓮は万年筆を持った。

重さが手に馴染んだ。

「卒業祝いだ」桐島は言った。「正確には、修了祝いか。お前の三年分のタスクが、一つ残らず完了した」

蓮は万年筆を見た。

「ありがとうございます」

「それだけか」

「……嬉しいです」

桐島は少し笑った。

「そういう顔ができるようになったな、お前も」

蓮は桐島を見た。

「そんなに変わりましたか」

「最初に来た時、お前は人間というよりカメラみたいだった。全部を映して、でも何も感じていない感じがした」桐島は椅子に座った。「今は違う。お前がそんなに穏やかな顔をするようになるとはな」

「穏やかかどうかは、自分では判断できません」

「俺が言うんだから穏やかなんだ」

蓮は万年筆を箱に戻した。

「桐島さん」

「なんだ」

「三年間、ありがとうございました」

桐島は少し間を置いた。

「また一から言い直せ。その場合は『お世話になりました』だ」

「お世話になりました」

「よし」桐島は立ち上がった。「陽菜さんが来たら、二人で出かけてこい。今日は仕事はない」

夕方、蓮と陽菜は帰り道を歩いていた。

桐島から「帰れ」と言われた後、二人は特に行き先も決めずに外に出た。

歩きながら話した。

「一つ、聞いていいですか」陽菜が言った。

「なんですか」

「三年前の解雇通知書、今でも覚えていますか」

「はい」

「文面を言えますか」

蓮は少し間を置いた。

「あなたとの信頼関係を損なうことなく伝えることが難しいと判断しましたが、業務上の理由により、来月末をもって雇用契約を終了させていただきます。なお、残余の有給休暇については」

「もういいです」陽菜が言った。

「途中ですが」

「十分です」陽菜は歩きながら蓮を見た。「その文面を、どんな気持ちで覚えていますか」

蓮は考えた。

「三年前は、そのままの温度で記録していました。冷たい感触がありました。雨の日でした。気温は十一度でした。通知書の紙が少し湿っていました」

「今は」

「今は」蓮は続けた。「その記憶を引き出すと、周囲の温度が違います」

「どう違うんですか」

「今日の気温と、陽菜さんが隣にいることが、一緒に記録されているからです。三年前の冷たさが、今の温かさと並んで入っています」

陽菜は前を向いた。

「後悔しませんか、覚えていることを」

「後悔ですか」蓮は言葉を確認するように繰り返した。「あの時の絶望も、冷たかった雨の温度も、全部覚えています。でも、今はそれらが必要なデータだったと思えます」

「必要なデータ」

「全部が、今日に向かっていました」蓮は静かに言った。「黒川部長が俺を追い出したから、桐島さんのところへ行った。帝都物産の資料を読んでいたから、陽菜さんに必要な情報を持っていた。あの雨の日がなければ、今日はありませんでした」

陽菜は足を止めた。

蓮も止まった。

「俺が覚えていなければよかったと思ったことは」蓮は陽菜を見た。「一度もなかったです」

陽菜は蓮を見た。

風が吹いた。

陽菜の髪が揺れた。

「……そう」陽菜は静かに言った。「よかった」

「何がですか」

「あなたが、自分の記憶を肯定できるようになったことが」陽菜は続けた。「私はずっと、あなたが辛そうだと思っていました。全部覚えているということが、全部の痛みを忘れられないということだと思っていたから」

「忘れられません」

「でも」

「でも、痛みの隣に、今のあなたがいます」蓮は答えた。「記録は上書きできません。でも、記録は増えます。増えた分だけ、文脈が変わります」

陽菜はしばらく、蓮を見ていた。

それから、少し笑った。

「一つ、お願いがあります」

「なんですか」

「これからは、私のことをもっとたくさん記録してほしい」

蓮は少し考えた。

「容量は無限ではありませんが」

「わかっています」

「でも、あなたのためなら拡張できます」

陽菜は少し目を細めた。

「約束してください」

「約束します」

二人はまた歩き始めた。

夜、一人になってから。

蓮はデスクに座った。

桐島にもらった万年筆を手に取った。

ノートを開いた。

三年前から使い続けているノートだった。

最初のページには、解雇通知書の文面があった。

最後のページには、今日の日付があった。

間に、全部が入っていた。

蓮はノートを閉じた。

窓の外を見た。

夜の街があった。

いくつもの光。いくつもの窓。いくつもの人間。

三年前もこの窓を見ていた。

全部を記録しようとしていた。

今は、一つだけを選ぶことができる。

記録は、武器だと思っていた。

でも今は、少し違うと感じていた。

記録は、地図だ。

どこから来たかを、ひとつも間違えずに示してくれる地図。

迷子になれない地図。

だから今日、ここにいられる。

蓮は万年筆を取った。

ノートの最後のページに、書いた。

『俺が覚えていなければよかったと思ったことは、一度もなかった』

ペンを置いた。

書いた文字を見た。

三年前の自分に向けた言葉だった。

でも同時に、これからの自分への言葉でもあった。

【記録:202X年〇月〇日 23:02】

幸福の定義、暫定版。

忘れたい過去が、今日を作った。

今日が、明日の記録になる。

記録は終わらない。

ただ、増えていく。

それでいい。

蓮はノートを閉じた。

万年筆を箱に戻した。

電気を消した。

窓の外に、夜が広がっていた。

明日も、記録が始まる。

でも明日の記録は、三年前とは違う。

敵の名前ではなく。

陽菜の笑顔から、始まる。


第50話 了 


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