第32話「診断室の処刑場」
診察室は、白かった。
壁も、天井も、デスクも、白。窓は小さく、カーテンが引かれていた。外の光が入らない部屋だった。
蓮は入室した瞬間、記録を開始した。
【記録:202X年10月2日 14:00】
診察室。面積、約18平米。照明、やや暗め。医師用デスクと患者用椅子の距離、約2メートル。権威の誇示と心理的優位を意図した配置。
デスクの向こうに、久保医師が座っていた。
六十代、白衣。眼鏡の奥の目が、冷たかった。笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
【記録:14:00:23】
久保医師、左手の薬指と中指に微細な振戦あり。アルコール依存、または急性緊張症状の可能性。
「どうぞ、お座りください」
久保が言った。
蓮は椅子に座った。隣に陽菜が座った。
陽菜が同行していることに、久保の目が一瞬動いた。不快感を隠した目だった。
「あの、先生」母が口を開いた。部屋の端の椅子に、母と麻衣が座っていた。「同伴者が必要なんですか、これは」
「患者の権利として認められています」陽菜が静かに答えた。「法的根拠が必要であれば、資料を提示します」
母が押し黙った。
麻衣が母の袖を引いた。
【記録:14:01:11】
母と麻衣、視線交差。0.03秒。「黙っておけ」という合図と判断。
二人は今日も、聖母を演じていた。心配する母。献身的な元交際相手。その仮面の下に何があるか、蓮は全部知っていた。
昨夜、田中からデータが届いていた。
ホテルの会合の音声記録だった。
『そうしたら、蓮のお金は私たちのものになるわけでしょ』という母の声。『先にバッグ買っちゃおうかな、あのブランドの』という麻衣の声。
全部、手元にある。
「では始めましょう」久保が言った。「篠原さん、あなたは自分の記憶が人より優れていると思っていますか」
「優れているかどうかは判断できません。ただ、記録されていると言えます」
「記録、という言葉を使うんですね。まるで機械のような」久保はペンを走らせた。「それは、自分が人間ではなく機械だと感じることがありますか」
「ありません」
「しかし、感情より記録を優先するということは」
「感情と記録は並走しています。優先順位の話ではありません」
久保は少し笑った。「では、いくつか質問をさせてください。記憶の確認テストです」
「はい」
「202X年の〇月、内閣改造がありましたね。その時の新大臣の名前を五人言えますか」
蓮は答えた。五人の名前、就任日時、前職、発言内容まで付け加えた。
久保のペンが止まった。
「では」久保は少し間を置いた。「202X年の〇月、ある有名企業の不祥事がありました。その企業の代表者が記者会見で述べた謝罪の言葉を、覚えていますか」
蓮は答えた。
一言一句、正確に。会見の時刻、場所、記者の質問内容まで。
「……それは、事前に調べてきたのでは」
「調べていません。記憶しているだけです」
「しかし」久保は声のトーンを変えた。「202X年〇月〇日、総理大臣が国会で述べた施政方針演説の冒頭三文を言えますか」
蓮は答えた。
久保が少し顔色を変えた。
「……正確ですね」小さな声だった。「では」久保は資料をめくった。明らかに次の質問を探していた。「202X年の経済成長率は何パーセントでしたか。小数点以下二桁まで」
「1.87パーセントです。ただし、先生の資料に書いてあるのは1.9パーセントで、それは概算値です」
久保の手が止まった。
「……見えたんですか、この資料が」
「二メートルの距離で、フォントサイズ12ポイントの数字は読めます」
部屋が静かになった。
母が「ほら、やっぱり変よ」と言った。「普通じゃない、こんなの」
蓮は母を見なかった。
久保が姿勢を正した。
「篠原さん。あなたは自分が特別だと思っていますか」
「特別かどうかは、他者が判断することです」
「しかし、自分の記憶が絶対に正しいと信じているということは、誇大妄想の一形態といえます」
「事実を述べることと、誇大妄想は異なります」
「では」久保は身を乗り出した。「私が今から述べる文章に、誤りがあれば指摘してください。202X年に発表された記憶研究の論文によれば、人間の長期記憶の保持率は平均で――」
久保が数字を述べた。
蓮は少し間を置いた。
「その論文の引用元が違います。久保先生が述べた数値は、実際には201X年の別の研究者の論文のものです。出典の混同です」
久保の目が細くなった。
「続けます。同じ論文の第三章で述べられた記憶の変容メカニズムは――」
「その章は存在しません。先生がおっしゃる論文に第三章はなく、章立ては第一章と第二章の二部構成です。ページ数は全部で三十八ページです」
沈黙。
「……なぜ知っているんですか」久保の声が低くなった。
「読んだことがあるからです。202X年〇月〇日、図書館で」
母が「嘘よ、そんなの」と言った。
麻衣が「でたらめを言ってる」と言った。
蓮は二人を見た。
「昨夜二十一時十七分、あなたたちはホテルの会議室で『蓮のお金は私たちのものになる』と話していましたね。そして麻衣さんは『バッグを買いたい』とおっしゃっていた」
母と麻衣の顔が青くなった。
「その会話の音声記録は、すでに法的機関に提出済みです」
「もういい」
久保が立ち上がった。
「あなたは重度の精神疾患です。この診断を――」
「先生」
蓮が言った。
静かだった。でも部屋が、その一言で止まった。
「201X年に発表された先生の論文、『記憶の変容と病理』」
久保の動きが止まった。
「十二ページ、四行目のグラフ。被験者Aの記憶保持率が経時的に上昇しているというデータが記載されています。しかし同論文の二十一ページ、七行目では、被験者Aは実験開始から六週目に脱落したと記述されています。六週目に脱落した被験者の、八週目以降のデータは存在しません」
部屋の空気が変わった。
「その矛盾を指摘した内部告発が、201X年〇月〇日に学会に提出されています。しかし翌月、告発は取り下げられました。取り下げの経緯について、先生の口座に帝都物産の関連法人から振り込みがあったのは、取り下げの三日前です」
久保の顔が白くなった。
「金額は」蓮は続けた。「四百八十万円。振込元は帝都物産の子会社、株式会社アドバンスドメディカルリサーチ。口座番号の末尾は七七三二です」
久保が椅子から崩れ落ちた。
座ったまま、ずるずると背もたれに沈んだ。
「その情報は」久保の声が掠れた。「どこから」
「三年前に読んだ資料から」蓮は答えた。「帝都物産がシュレッダーにかけさせた資料の中に、先生の名前がありました。一言一句、覚えています」
母が「嘘よ」と叫んだ。でも声が震えていた。
麻衣が立ち上がろうとした。
陽菜が立った。
コートのポケットから、小型の録音機器を取り出した。
「本日の会話は全て記録されています」陽菜は静かに言った。「医師資格の不正維持、帝都物産からの不正献金、虚偽診断書作成の共謀。全て、法廷への証拠として提出します」
久保は何も言わなかった。
ただ、机の上の論文のコピーを見ていた。
「先生」蓮が言った。
久保が顔を上げた。
「診断結果は、誰が決めますか」
久保は答えなかった。
「事実が、決めます」
蓮は立ち上がった。
陽菜と共に、診察室を出た。
廊下に出た瞬間、後ろで母の叫び声が聞こえた。でも蓮は振り返らなかった。
【記録:202X年10月2日 14:47】
精神鑑定、完了。結果:診断能力を持つ医師による正式診断、不可能。理由:鑑定医の信用失墜。
蓮は歩いた。
白い廊下を、前だけを向いて。
第32話 了
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