第30話「第二章完結:静かなる審判」
新宿のガード下は、騒がしかった。
電車の音、酔客の声、屋台の煙。その雑踏の中で、黒川と石倉は向かい合っていた。
安い焼き鳥屋の隅の席。二人とも、高級なスーツが場違いだった。でも今の二人には、それ以外の服がなかった。
「あの男は人間じゃない」石倉が言った。
焼酎を一口飲んで、続けた。
「記録だ。あいつは記録そのものなんだ。俺が何をしても、何を言っても、全部残る。消えない。どこにも逃げられない」
黒川は黙っていた。
「普通の人間は忘れる。時間が経てば、証拠も薄れる。でもあいつは違う。全部、一秒も欠けずに持ってる」石倉は手を震わせながらグラスを置いた。「化け物だ」
「化け物でも」黒川が口を開いた。「人間だ。人間なら、弱点がある」
「弱点?」
「あの記憶の能力、普通じゃないだろ。医師の診断があれば、法的能力を問える可能性がある」
石倉が目を細めた。
「……精神疾患、という線か」
「本人が気づいてないだけで、あれは病気なんだ。強迫的な記憶障害、そういう診断名もある。財産管理能力を問えれば」
その時、黒川のスマホが鳴った。
麻衣からだった。
黒川は一瞬、躊躇した。でも出た。
「黒川さん、私です」
「……なんだ」
「私と、蓮の母さんで話し合いました。蓮を訴える準備が、できています。精神的に問題があるという診断書、集められそうです。協力してもらえますか」
黒川は石倉を見た。
石倉が小さく頷いた。
「わかった」黒川は答えた。「俺も動く」
電話を切った。
三人が動き始めた。
でも誰も知らなかった。
その会話が、すでに蓮の手元にある録音データの中に入っていることを。
黒川のスマホに仕込まれた、田中経由で設定された通話記録アプリ。蓮が田中に依頼したわけではない。田中が自主的に「証拠を残したい」と、IT系の友人に頼んで設定したものだった。
人間は、信頼した相手のために動く。
それも、事実だった。
翌朝、瀬川商事の全社員が会議室に集められた。
陽菜が壇上に立った。
「本日、皆さんにご報告があります」
静かな声だった。でも全員が聞いていた。
「先月より、第三営業部において不正な経費処理および機密情報の外部流出が確認されました。石倉前部長および関係者については、現在法的手続きが進行中です」
ざわめきが起きた。でも陽菜は続けた。
「この調査において、外部コンサルタントの篠原蓮氏に多大な貢献をいただきました」
全員の視線が、後方の席に座っていた蓮に集まった。
蓮は表情を変えなかった。
社員たちの目が変わっていくのを、蓮は感じた。
最初に来た時の目。廊下ですれ違った時の「何者かわからない男」を見る目。それから「蓮に見られると怖い」という恐怖の目。
今日は違った。
畏怖だった。
恐れているが、それ以上に、認めている目だった。
「篠原氏には今後も、弊社の正式なパートナーとして活動していただきます」
陽菜が蓮を見た。
蓮は少し、頷いた。
壇上を降りる陽菜の横顔を見ながら、蓮は静かに思った。
かつて俺の手柄を奪った黒川の声。俺の未来を売った麻衣の声。俺の給料を食い続けた母の声。
今は、一文字も聞こえない。
その夜。
蓮は一人でデスクに座っていた。
画面に、記録が並んでいた。
【記録:第二章・総括 202X年9月18日】
黒川誠。前職会社より即刻解雇。損害賠償請求、進行中。帝都物産との共犯関係、法的証拠確定。不正競争防止法違反、起訴準備完了。信用情報、毀損。
水沢麻衣。前職退職。バイト先解雇。経済的困窮、開始。詐欺罪関与の疑い、調査中。黒川との共犯関係、記録済み。
石倉誠。瀬川商事を追われる。刑事告訴、準備完了。帝都物産との裏契約、証拠確定。
母親。家賃二ヶ月滞納。仕送り、三万円に固定済み。後見人制度悪用の試み、法的に封殺済み。
全員が、過去のデータになった。
更新する必要がなくなった記録たち。
蓮はファイルを閉じた。
屋上に出ると、夜風が冷たかった。
陽菜がフェンスの近くに立っていた。
都心の夜景が広がっていた。いくつもの光。いくつもの窓。いくつもの人間。
蓮が隣に立った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「一つ、聞いていいですか」陽菜が言った。
「なんですか」
「あなたは、この一ヶ月で何か変わりましたか」
蓮は少し考えた。
「記録の質が変わりました」
「質?」
「以前は、全ての記録が同じ優先度でした。数字も、言葉も、出来事も、全部フラットに記録していた」
「今は」
「一部の記録が、優先度が高くなっています」
「例えば」
蓮は少し間を置いた。
「あなたが笑った時の記録は、他のどの記録より鮮明です。理由は、まだ分析中です」
陽菜は蓮を見た。
夜景の光が、その瞳に映っていた。
「あなたは私を変えた」陽菜は静かに言った。「数字ではなく、人として」
「どういう意味ですか」
「以前の私は、全てを計算していました。人も、関係も、全部コストとリターンで考えていた」陽菜はフェンスに手をかけた。「でも今は、計算できないものがある」
「何が」
「あなたのことが、心配になる」陽菜は蓮を見た。「効率的じゃない感情だと、わかっています。でも消えない」
蓮は答えなかった。
【記録:202X年9月18日 22:31】
瀬川陽菜、「心配」と発言。対象:篠原蓮。
心拍数:89。通常値より14%上昇。原因:引き続き分析中。
「……記録しておきます」
陽菜が少し笑った。
「それがあなたの返事ですか」
「今のところは」
「今のところ、ということは」
「将来、別の返事ができるかもしれません」
陽菜は前を向いた。
遠くのビルに、巨大な広告が輝いていた。
企業ロゴ。青と白のデザイン。
帝都物産。
蓮はそのロゴを見た。
瞳の中に、青い光が映った。
【記録:202X年9月18日 22:33】
ターゲット更新。
帝都物産。
創業七十二年。売上高四兆二千億円。従業員数三万一千名。
そして、二十年分の不正。
削除開始。
「明日から、新しい世界を始めましょう」陽菜が言った。
蓮はロゴを見たまま、答えた。
「はい」
夜風が吹いた。
二人は並んで、帝都物産のロゴを見ていた。
第30話 了
【第二章「静かなる独裁」 完結】
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