第3話「桐島という男」
土曜日の渋谷は人が多かった。
待ち合わせの角打ちは、雑居ビルの地下にある小さな店だった。カウンターだけの十席ほどのスペース。桐島は先に来ていて、すでにビールを半分空けていた。
「遅い」
「定刻通りです」
「俺が早いんだよ」
桐島誠、三十二歳。蓮より五歳上で、前の会社では同じ営業部にいた。背が高く、よく笑う男だ。独立してからどこか目が変わった、と蓮は思っていた。迷いがなくなったような、そういう目だった。
ビールを注文して、しばらくは他愛ない話をした。景気の話、共通の知人の話、最近食べた旨いものの話。
桐島が本題に入ったのは、二杯目のビールに差し掛かった頃だった。
「お前、今の会社どうだ」
「普通です」
「普通、ね」桐島は少し笑った。「黒川がまだ部長やってるんだろ?」
「ええ」
「あいつの下で三年か。よく持ったな」
蓮は何も言わなかった。
「俺な、お前のことずっと見てたんだよ」桐島はビールを置いた。「一緒にいた頃から。お前は頭がいい。営業センスもある。でもなんか、全部セーブしてる感じがしてた」
「セーブ、ですか」
「そう。本気出してないというか。出せない環境にいるというか」
蓮は少し考えた。セーブ。その言葉は正確ではないかもしれない。ただ、目立つ必要がないと思っていた。目立てば狙われる。黒川に、麻衣に。だから普通でいることが最適解だと思っていた。
「一つ聞いてもいいですか」
「なんでも」
「桐島さんの会社の、今の売上規模は」
桐島が少し目を細めた。それから数字を答えた。蓮はそれを聞いて、頭の中で計算した。従業員数、オフィス賃料、業種から推定されるコスト構造。利益率はおそらく。
「うちに来ないか」
桐島が言った。唐突ではなかった。この会話の最初から、そこに向かっていた。
「営業部門を任せたい。今うちには数字を作れる人間がいない。お前がいれば変わる」
「……考えさせてください」
「もちろん。ただ一つだけ言っておく」
桐島は蓮をまっすぐ見た。
「お前の価値は、今の会社では絶対に正当に評価されない。それはお前が一番わかってるはずだ」
蓮は何も言わなかった。
でも、桐島の言葉は頭の中に刻まれた。完全な形で、一字一句。
帰り道、蓮は一人で夜の渋谷を歩いた。
桐島の会社に行けば、収入は最初下がるかもしれない。安定は失われる。リスクがある。
でも。
(俺の価値は、今の会社では正当に評価されない)
それは、わかっていた。ずっと前から。ただ認めたくなかっただけだ。
蓮はスマホを取り出して、転職サイトのアプリを開いた。桐島の会社を検索した。小さいが、評判は悪くない。むしろクライアントからの評価は高かった。
電車に乗りながら、蓮は静かに決めた。
来週、返事をする。
YESと。
そしてもう一つ、決めた。
退職届を、来月の頭に出す。
誰にも相談しない。誰にも言わない。ただ、出す。
窓の外を夜景が流れていく。蓮はイヤホンも外して、ただその光を見ていた。
怒りは、まだ来ない。
でも代わりに、静かな確信があった。
俺は間違っていない。これから先、間違えない。
ただ、覚えている。全部。
それだけで、十分だ。
第3話 了
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