第2話「記録される日常」
退職することを、蓮はまだ誰にも言っていない。
言う必要がない。言えば動揺が広がり、引き止められ、うやむやになる。それがこれまでのパターンだった。だから今回は違うやり方をする。準備が整うまで、ただ普通に働く。
それだけだ。
オフィスに着くと、麻衣がいつも通り「おはよう」と言った。笑顔も声のトーンも、別れる前と変わらない。蓮も「おはようございます」と返した。何事もないように。
(二〇〇〇年〇月〇日、午前八時五十二分。水沢麻衣、笑顔で挨拶。声のトーン:通常)
頭の中で自動的に記録が走る。蓮はそれに気づきながら、自分のデスクに座った。
午前中は報告書の仕上げ。昼は一人でコンビニ弁当。午後から得意先への訪問が一件。どこにでもある普通の一日のはずだった。
変化が起きたのは、午後三時過ぎだった。
「篠原、ちょっといいか」
黒川部長が会議室に呼んだ。二人きりになると、部長は珍しく神妙な顔をした。
「来月、田端商事のプレゼンがある。お前に資料を作ってほしい」
田端商事。蓮が一年かけて関係を築いてきた大口取引先だ。
「内容は?」
「新サービスの導入提案だ。詳細はあとでメールする。期限は来週金曜」
「わかりました」
「それと」部長は少し声を落とした。「このプレゼン、うまくいけば俺の課長昇進に繋がる。頼むぞ」
俺の昇進。
蓮は頷いた。「尽力します」と答えた。
部長が満足そうに会議室を出ていく背中を見ながら、蓮は静かに考えた。
(田端商事の担当者、鈴木部長が好むプレゼンの形式。図表は左揃え、フォントはメイリオ、最初の三分で結論を出すこと。二〇〇〇年〇月の商談で本人が言っていた)
全部、覚えている。
そしてもう一つ、覚えていることがある。
二〇〇〇年〇月〇日、午後四時。この同じ会議室で、蓮が黒川に「田端商事への新サービス提案を考えています」と話した。黒川は「ふうん」と言って興味なさそうにしていた。
今日のプレゼン依頼は、あの会話から来ている。
蓮は資料を作る。完璧な資料を。田端商事が必ずYESと言う資料を。そしてその手柄は、また黒川のものになる。
それでいい。今はまだ、それでいい。
蓮はデスクに戻り、資料作成を始めた。
夜、帰宅してからスマホを開くと、桐島からメッセージが来ていた。
『今週末、時間あるか? 飲みたい』
桐島誠。前の会社の先輩で、三年前に独立した男だ。当時は「無謀だ」と周囲に言われていたが、今は小さなコンサル会社を経営している。付き合いは長いが、最近は疎遠になっていた。
蓮は少し考えてから返信した。
『土曜日なら』
『よし、七時に渋谷の角打ちで』
短いやり取りだった。でも蓮は何となく、この約束が大事な気がした。根拠はない。ただの勘だ。
シャワーを浴びながら、蓮は今日一日の記憶を整理した。
麻衣の笑顔。部長の依頼。桐島のメッセージ。
頭の中は静かだった。感情はまだ、あまり動いていない。
ただ、何かが少しずつ変わっている気がした。
自分の中の、何かが。
第2話 了
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